キリスト教は愛の宗教というが、それだけで話は終わらないのがキリスト教

今日のみことば

ヨハネ13,31-33a,34-35 「・・・あなた方に新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。  私があなた方を愛したようにあなた方も互いに愛し合いなさい。・・・」

ヨハネの黙示1,1-5a 「私ヨハネは新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。・・・『見よ・・・神は自ら人とともにいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったらである。』・・・すると、玉座に座っておられる方が、『見よ、私は万物を新しくする』と言った。」

感想

 キリスト教は愛の宗教と言ってしまうと話がヤヤコシくなる。愛を大事にするのはキリスト教だけではないからだ。また、確かにイエス様は無私の愛を説き、生き抜かれたのだが、殉職した人々も沢山いる。
 しかし、ヨハネの黙示にあるような人生観はキリスト教の特徴と言えるのではないか。いつもいつもそんなことを考えながら生きているわけではないが、何かというとここに立ち戻って歩み直そうとしているのが信者なワケで、ここに立ち戻らなくして愛し合うことは容易ではない。とくに、気の合わない人を愛しなさいと言われても難しい。ましてや、最近頻発しているとんでもない交通事故で家族を失った人にとっては「厳罰」を望むのは当たり前だ。
 信者であっても、同じような状況に直面したら、同じ心境になるに違いない。簡単に心の整理ができるわけではない。しかし、信者らしい直面の仕方はあるし、信者らしい苦悩の仕方があることを忘れてはいけない。黙示録の箇所を何度も何度も反芻しながら懊悩することになる。十字架の懊悩の後で主の復活が来たことを忘れてはならない。
 イエス様が十字架から逃げ出さなかったのは、ヨハネが描いた神様の夢を疑わなかったらではないのか、と思う。
 やっぱり、ヤヤコシイ! 
モズが叫んだ。「ヤヤコシイ!」


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