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4月, 2019の投稿を表示しています

初代キリスト信者たちの「心と思いと所有物の共有」は、今日もありか?

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使徒言行録4,32 「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。」 こんなことは現実にはあり得ない。確かに、持ち物の共有は誰とでもできるものではない。心と思いの共有も同じように難しいが、努力する価値はある。当時の「信じた人々の群れ」は復活の主を真ん中にして、主の思いを共有し、何かあっても主に立ち返って分裂することはなかった。「主に立ち返って一つになる。」教会の原点。 ミカンの蜜を吸うミツバチin指宿

だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。

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ヨハネ3,5  ニコデモは善意だが頭のレベル。頭ではイエスの目線に立つことはできない。なぜなら、頭は割り切れるものには向いていても、「思いのままに吹く」つかみ所のない風(霊)をとらえるのは苦手。理解できないことにも「アーメン!」と言えたらすごい。 町中で見かけた八重桜

あなた方はこれらのことの証人となる

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今日のみことば メシアは苦しみを受け三日目に復活する。・・・エルサレムから始めて、あなた方はこれらのことの証人となる。(ルカ24,47-48) ひと言 復活の主の命はもはや死ぬことはないという単に永続する命を意味しない。私たちを生かす命。私たちはそのことの証人。証人の元の意味は殉教者。私たちが、喜びや希望の元になるなら自分に死んで人を生かす証人となった。 子どもたちと出かけた芝桜鑑賞会

復活祭は十字架に光が当てられたとき

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今日のみことば ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」(ルカ24,25-26) ひと言 頭では分かっていても、苦しいことは誰でも拒絶したくなる。避けて通れない人生の苦み。今日の、みことばによれば、それは始まり。しかも栄光の始まり。実感はないが否定できない。そう信じて全てを受け入れていきたい。十字架には意味があるというから。 名称不明2019/04/23撮影

空の墓に主を探すマリアは私たちの姿のようでもある

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今日の福音 ヨハネ20,13-14 天使たちが「婦人よ、何故泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「私の主が取り去られました。どこに置かれているのか私には分かりません。」こう言いながら、後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、、それがイエスだとは分からなかった。 ひと言 葬られた人が墓のなにいるのは当たり前。マリアの思い込み。しかし、空の墓を探してもイエスはいない。私たちも似たようなことをしていないか。常識や知識、経験が中心でキリスト不在の問題解決。復活の主を信じてはいるが・・・。 幼稚園の駐車場の片隅に琵琶が

あなたにもキリストに出会えるガリラやがある

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今日の福音 「あの方はここにはおられない。かねて言われていた通り、復活なさったのだ。・・・あなた方より先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」(マタイ28,6-7) ひと言 イエス様と弟子たちの故郷ガリラヤ。彼ら、特に弟子たちの人生の転機となった湖畔での出会い。そんな思い出の地に帰るなら師と再会できると天使が告げた。信者にもそれぞれに主と出会った思い出がある。そこに帰るなら信仰の新しい歩みが始まる各自のガリラヤ。   夕暮れのガリラヤ湖 

教会が本当に愛の宗教となるために避けて通れないキリストの十字架

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復活徹夜祭の典礼より 使徒パウロのローマ人への手紙6章5節 今は亡き美島神父さんの遺品 「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」 (長い)ひと言 キリスト教は愛の宗教と言われるが、キリストの十字架(不本意なこと・好きになれない人・誤解・非難などなど)を甘受することなしに、愛の人にはなれない。十字架上の主の最後の言葉は「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ24,34)だった。そんな主にあやかることなしに私の復活はない。 復活の主からの祝福がみなさんの上に豊かにありますように!

聖木曜日・主の晩さんの夕べのミサの朗読より

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今日のみことば コリントの教会への第一の手紙11,26 「・・・あなたがたは、このパンを食べこの盃を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」 ヨハネによる福音13,14 「・・・師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」 ひと言 「主の死を告げ知らせる」のは声によるではなく、お互いに「足を洗い合う」ことによって。足を洗うのは奴隷の仕事。ご自分を徹底して卑しめた主の思いは、それが平和を築く最良の道であることを知らせたかった。 わたしたちにはそこまで徹底することは難しいが、自分を弁護しようとするクセに気づいて意に反することをも受け取ることがでるなら穏やかな人間関係が生まれるようには思う。そうできたら、「主の死を告げ知らせる」ことに成功したと言えそう。 21日の復活祭はもうすぐ。せめて、この三日間頑張ってみたい。                                                                           近くの通りで見かけた水溜。主の悲しみのハート?

指宿教会管理者の郡山です。よろしくお願いします!

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 指宿教会管理者 パウロ郡山健次郎 「司教職を引退したらあなたは全く自由!」昨年、バチカン大使から太鼓判を押されたものの、現実はそれほど甘くはなかった。自分から言い出した、司祭の「非園長化」を自ら反故にする結果となった。 幸い、幼稚園は安泰、教会も自立した信者たちが運営にあたり、「教会管理者」の出る幕は、今のところ毎朝と主日のミサだけ。 志布志以来となる自炊も野菜中心のかつて取った杵柄、苦にならない。時々差し入れもあってハッピー。数年前にもらい受けた自転車も、近くの自転車屋さんの整備でスムーズな動きが蘇った。指宿中を走り回って野鳥の写真も一杯撮りたいと思っている。

念願のネット宣教,図らずも指宿教会で実現。新しい宣教活動が始まる!

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QRコード 教会のホームページを見切り発車。これから少しずつ写真を入れたり記事を増やしたり、内容の充実が課題。早速、聖なる三日間の典礼も発信したい。 今日、ようやく市役所で転入手続きを済まし、晴れて指宿市民となった。乾杯したいところだが、復活祭のお祝いと一緒にすることに。