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6月, 2019の投稿を表示しています

「あなたにとって私は誰か?」と聞かれても即答に窮してしまうが…

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今日のみことば マタイ16・13-19「イエスは…『人々は人の子を何者だと言っているか』とお尋ねになった。」弟子たちは言った。『洗礼者ヨハネだ』という人も『エリヤだ』という人もいます。ほかに、『エレミヤだ 』 とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。イエスが言われた。『それではあなた方は私を何者だというか』…」 感想  「 私を何者だというか」と聞かれても未だに即答に窮するが、 若い頃は、「何でも話せる親友」だったと思う。かつては、「即答できないといけない」みたいな思いがあったが、長い司祭生活そのものが答えになっているようにも思うので、ペトロの心境で「あなたはなにもかもご存じです。今さら…」(ヨハネ21・17)と言いたいのだが。あえて言うなら、「あの朝日みたい。」生まれたての朝日は、美しく感動的。月のように欠けることもなく、年中 まん丸でみんなを照らす。やはり憧れ。  ペトロ・パウロの祭日の今日、せめて、苦手な電話のベルにも丸く反応して過ごしたい。 お隣の屋根の上から昇る朝日

足元のパワハラ、セクハラで今なお心痛の絶えない主のみこころを思う日

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今日のみことば ルカ15・3-7「あなた方の中に百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで探し回らないだろうか。そして、見つけたらその羊を喜んで担いで家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』というであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪びとについては、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」 感想  少なくとも自分にとっては、「この話は美しい」で終わることが多い。あるいは、「そんな風に心にかけてくださる方がおられるから後のことはお任せ」と安心してしまうこともある。  なによりも、若い頃はともかく、今となっては「自分は迷える子羊」と実感したことはない。むしろ、人の回心を願う立場に立っているのが現実。そして、報われないまま、祈りながら待つ毎日だ。だから、「後のことはお任せ」となる。  身内のことを言えば、並みいる23名の甥姪のうち、奥さんや旦那を信仰に導いたのは2人だけ。あとは信仰があるのかどうなのかも定かではない状態。それでも喜びは大きい。  そういう意味では、「たまにある喜びへの期待」は持続したい、というのが 、今日の結論。 こども菜園のトマト 収穫は多いが…    

山上の説教から感じるのはイエスさまは本当は厳しい人だったのではないか。

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今日のみことば マタイ7・15-20「偽予言者を警戒しなさい。…あなたがたはその実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。…」 感想  インチキ預言者がいたらしい。といっても、人ごとのように聞いてはいけない。ここは、信者への厳しい要求として受け取らなければ意味はない。  あなたがたは、インチキ信者であってはならない。インチキかどうかは実を見れば分かる。思わずドキンとしてしまう。  自分をインチキ信者、インチキ司祭とは思っていないが、茨信者、あざみ信者、茨司祭、あざみ司祭であるのは普通。イエスさまから見れば「インチキだ!」と一括されるかもしれないが、片目をつぶってもらえそうな気もするのでそれほど神経質にはならない。  それでも、ナントカ良い実を結ぶ今日でありたい。 園庭フェンスに咲くグロリアス

高等動物を誇っても一皮むけば犬や豚と変わらない自分があることにシュン!

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今日のみことば マタイ7・6,12‐14「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。人にしてもらいたいと思うことは何でも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入るもの者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も狭いことか。それを見出すものも少ない。」 感想  「あなたがたは犬だ。あなたがたは豚だ。」そう言われたら、これは人権問題。イエス様はそう言いたかったのではないとは思うが、結局私たちは、「自分が自分が」と自分中心だとしたら、犬や豚とさして変わらない。  毎日多くの恵みをいただきながら不平不満、心配が勝っているならせっかくの恵みを、「踏みにじる」とまでは言わなくても粗末にしていることになる。  ともあれ、どんなことにも、「アーメン」と言って、今日も主につながっていたい。 聖書の庭も緑が増してきた

空の鳥、野の花、しかしボクは人間。それでももっと自由な心でとは願う

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今日のみことば マタイ6・24-34「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるかどちらかである。あなた方は神と富とに仕えることはできない。…空の鳥をよく見なさい。種もまかず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。 だが、あなた方の天の父は鳥を養って下さる。…野の花がどのように育つのか注意してみなさい。働きもせず、紡ぎもしない。…今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装って下さる。…何よりもまず、神の国神の義を求めなさい。…。」 感想  空の鳥や野の花のような生き方ができるわけではないが、こだわらない生き方はしたいと思っている。そうはいっても、これまた難しい。ともあれ、何をするにも「神様にこだわって」生きるようにということかなと思うが、これまた自信はない。  しかし、一人になって静かに振り返るとき、果たして、神様も同意なさっただろうかという反省ならできそう。これを繰り返しながら、それでも自分にこだわった生き方から解放されるわけではないが、ナントカ譲歩できる心の幅は広がるような感じはする。 マリアさま横のサンパラソル

信仰は数の多さではなく質。数は積み上げられるが質は測れる。

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今日のみことば マタイ6‣19-23「あなたがたは地上に富を積んではならない。…富は天に積みなさい。…体のともし火は目である。目が澄んでいればあなたの全身が明るいが、濁っていれば全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えればその暗さはいかばかりであろう。」 感想 「天に富を積みなさい。」天に富を積む。善行、親切、奉仕などなど。すぐに思い浮かぶのはこうしたこと。イエス様もきっと同意してくださるとは思う。しかし、「積む」と聞けば、数が問題になるが、信仰は数の問題ではなく質の問題ではないのか。  天は神様のことなので、「これは神のみ心にかなっているか」と素直に反省することで信仰の質は向上する。繰り返すが、信仰は数の問題ではなく、あくまで質の問題。病気で動けない人でも信仰の質は元気な人より高く深いことは珍しくない。  とくに元気な人には、一人静かに自分と向き合うことなしに信仰の質の向上は難しいように思う。心したい。 登園後の御堂訪問

主の祈りを唱える信者は十字架の真ん中を生きる者

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今日のみことば マタイ6‣7‐15「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。…『天におられる私たちの父よ、御名が崇められますように。…私たちの負い目を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように。…。』 感想  十字架の縦の線は人が神に向かう姿、横の線は人々に向かう姿。イエス様はこの真ん中を生き抜かれた。聖体拝領時の「アーメン」は、単なる同意や返事ではなく、「私も同じように生きます」という宣言の言葉。イエス様も重大な発言の時は「アーメン、アーメン」と繰り返された。昔の訳語は「まことに、まことに(汝らに言う)」となっていた。  十字架の真ん中を生きる信仰。「熱心な信者ほど人に厳しい」というのは本来あり得ない。神様にも人にも寛大。これが正統信仰。心したいと思う。 子供たちこそ真ん中を生きている  

静かで地味な信仰生活にこそ神は働かれると言われているようだが

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今日のみことば マタイ6・1-6,16-18「見てもらおうとして人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あんたがたの天の父の元で報いをいただけないことになる。・・・あなた方の施しを人目につかせないためである。・・・あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。・・・そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いて下さる。」 感想  今日のキーワード。「人目につかない信仰。」「隠れて祈る。」なんとなく日本人向きのことばだ。ボクとしても、イエス様に勧められるまでもなくそうしているように思う。しかし、「 隠れたことを見ておられるあなたの父が報いて下さる」からそうすると言うより、単に弱気なだけだが。  ともあれ、神様は静かなのがお好き。当時の指導者たちの大げさな信仰表現は、イエス様から見れば、騒々しいだけで信仰の臭いはしなかった。なぜか、祈りは神様が働かれるのを静かに待つことなのに、いかにも声や身振りの大きさがものをいうかのようにみえたからではなかったのか。心したい。 今日、立正佼成会の教会で

三位一体の正三角形の余韻を味わいながら生きるのが信者

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今日のみことば マタ5・43-48 「あなた方も聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。・・・あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」 感想  「 敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」なら、なんとか頑張ろうと思うが、「 天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と言われたら、即座に「無理!無理!」となる。  そう思ったとき、ふと、三位一体の正三角形が思われた。「信者というのは、あの正三角形のバランスの取れた三位一体の 姿をイメージしながら生きる者」と説教で話したばかりではなかったのか。  完成品にははるか遠くても、正三角形にあこがれ、一糸乱れない父と子と聖霊の交わりにうるおされながら生きたいとの望みを持ち続けるなら、「ボーっと生きてるんじゃないよ!」とのお叱りは免れるに違いない、と思った。 大潮の昨日知林ヶ島がつながった

キリスト教徒迫害、逮捕、殺害に燃えたパウロの回心の本気さに倣いたい

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今日のみことば 2コリント6・1-10「私たちはまた、神の協力者としてあなた方に勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、『恵みの時に、私はあなたの願いを聞き入れた。救いの日に私はあなたを助けた』(イザヤ49・8筆者注)と神は言っておられるからです。」 感想  実際の話、迫害者、つまり神の敵対者パウロが、キリストの使徒パウロとして認知されるまでの道のりは結構険しいものがあった。最終的には異邦人の使徒として大活躍するわけだが、「自分の回心は本物」であることをことばと誠実な行いで証した結果だった。神の敵対者から神の協力者になったパウロの本気さに倣いたいと思った。  神の協力者。頭では分かるが、手に余りそうな感じもする。それでも、「アーメン」と言って聖体拝領したので、どんなことにしろ、「アーメン」を言ってみよう。 十字架上で憩うトンビ。崎津教会  

ドッシリと根を下ろしたトックリ椰子のように泰然自若を貫けたら

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今日のみことば 2コリント 5・14-21「…キリストと結ばれた人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、 …ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたはキリストの使者の務めを果たしています。…」 感想  昨日も触れたことだが、今日の箇所でも、パウロ自身 の復活という強烈な体験が行間ににじみ出ていると感じる。 言うまでもなく、それは神の業だった。だから、過去がどうあろうと臆することなく、福音を説くことができる。  わたしたちの問題は自分の過去に引きずられて臆病になっていること。無意識のうちに「自分はふさわしくない」という劣等感に屈してしまう。そこにこそ「キリストに結ばれ(ようとし)ない」私たちの手ごわさがある。古い自分のままでいいとは思はないが、かといって、現実にはどうしたらいいかよく分からない。   それでも…、 とりあえず、意に反したことでもすぐに反論しない、人のせいにしない、愚痴らないなどなど心がけたい。できれば、「アーメン」と言って飲み込めたらもっといい、とは思う。 どっしり(アーメン)

キリスト教徒の迫害逮捕、そして殺害。天命と信じたパウロの闇から光が

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今日のみことば 2コリント4‣7-15「私たちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために。私たちは四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打倒されても滅ぼされない。…主イエスを復活させた神が、イエスと共に私たちをも復活させ、あなた方と一緒に御前に立たせてくださると私たちは知っています。すべてこれらのことは、あなた方のためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。」 感想  パウロはかつての自分の深い闇の歴史を忘れていない。「 主イエスを復活させた神が、イエスと共に私たちをも復活させ」(14節)たというとき、闇から光に引き出された落馬事件(使徒言行録26・12-18)が念頭にあったと言わ れる。  私たちにも大なり小なり人に知られたくない闇の過去を持っている。そんな闇の体験は自分一人の貴重な体験というだけでなく、「 多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです」(15節)という力強い言葉は、いつも前を向くための「福音」。 どっしりと根を下ろしたトックリヤシ

律法は人を不自由にするが真の律法は人を解放する

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今日のみことば マタイ5‣20-26「言っておくが、あなた方の義が律法学者やファリサイ派の人々の義に勝っていなければ、あなた方は決して天の国に入ることができない。あなた方も聞いている通り、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし私は言っておく。兄弟に腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。…」 感想  「しかし、私は言っておく。」この一言で、イエス様は従来の形骸化した律法主義を修正された。律法の厳守だけが救いの保証であるかのように理解されていたことに対して「ノー!」と言われた。  「しかし、私は言っておく。」律法の対象は行為。人に見える限りにおいてのみ善悪の判定には危うさが残る。つまり、律法は心の中までは判断できない。  それでも、決めつけたくなることは多い。誰かの言動、立ち振る舞い。司祭から見れば、ミサ中の信者の動きも気になることがある。そんなとき、「しかし、私は言っておく。」強い口調の主の言葉が響くといいのだが。 ガクアジサイに丸々太ったハチがやってきた

律法のしがらみからの解放こそイエス様による文明開化の始まりだった

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今日のみことば マタイ5・17‐19「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで律法の文字から一点一画も消えうせることはない。…」 感想  今朝のみことばを読むと、当時、イエス様の話を聞いた人々の中には、早とちりの人がかなりいたことがうかがえる。「律法なんかに縛られる必要なんかない。わしらはもう自由だー!」そこでイエス様は慌てて修正する必要があった。「チョッちょっと待ってください。私はそう言っているのではありません。律法はモーセが神様からいただいたものだから廃止すべきではありません。そうではなくて、こんなにも沢山の律法ができているが、モーセのあの律法の精神に立ち返ってみるなら足りないことが多い。字面にとらわれずに律法の本心に立ち返ってみないといけません」みたいなことになったと思われる。  「人にしてもらいたいと思うことをあなた方も人にしなさい」(7・12)といういわゆる黄金律はすでに律法の書にあること。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい」(申命記 6・5 マタイ22・40)、 「隣人を自分のように愛しなさい」(ㇾビ記19・18 マタイ22・39)。こうしたことは不変。  人の言動に影響されない人はいないが、どんな時でもこの黄金律に立ち返りたいと思った。これから子供たちとアジサイ公園。 友人宅のガクアジサイ

言霊(ことだま)信仰は聖書の世界にもあったというよりも・・・

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今日のみことば マタイ10・7‐13「…その家に入ってら『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々それを受けるにふさわしければ、あなた方の願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに帰ってくる。」 感想 言葉は生きて働く。最も明確に示されているのが創世記一章。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」(1・3)。神が発するみことばが次々と形をなしていった。  「平和があるように」という挨拶は単なるあいさつではなく、祈りに近い言葉だ。「あなた方の願う平和」(13節)とあるのでこれはもう祈り。  それはそうと、今朝のみことばは、祈り続けることの大切さを教えているように思う。送られる挨拶にふさわしかったら、その家に平和が訪れるという確約が頼もしい。そうでなくても、送ったあなたが平和になる。祈りは無駄にならないどころか、祈った人にも益をもたらす。だから祈り続ける価値がある。これが今朝の結論。 立派な実をつけたキュウリ

時間の流れを無視したヨハネは誰よりも主との思い出の中に生きた。

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今日のみことば ヨハネ19‣25‐34「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。…」 感想  1997年の秋、エルサレムにあるカルメル会(だったと思う)の聖書研究所に行く機会があった。「マリア様は十字架のもとにいなかった。」高名な聖書学者だという司祭の断定的な言葉に一同唖然とした。すかさず誰かが声を上げた。「じゃ、どこにいたんですか?」「ナザレにいました。」確信に満ちたひと言に一同絶句したものだ。  その理由には説得力があった。同じ場面の記事はマタイ、マルコ、ルカにもあるがマリア様への言及はない。マタイ27・56「その中にはマグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。」マルコ15・40「その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセフの母マリア、そしてサロメがいた。」ルカ23・49「ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立ってこれらのことを見ていた。」  なるほどと思う。そういわれてみれば、マリア様と追っかけのおばさんたちを一緒にしてほしくないとは思う。個人的には学者神父さんの見解に賛成。これについては、いつかも書いたと思うので今日は割愛したい。  ともあれ、ヨハネはなぜ他の福音史家が書かないことを書いたのか。もちろん不明だが、イエス様に対する特別の友情に基づいて発想豊かに記したのかもしれない。今日は、「教会の母聖マリア」を記念する日。その典拠となったのが上記の福音の記事。 園庭奥の聖母

このところ毎日決別説教を聞かされ?た後の今朝はガラッと変わって…

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今日のみことば ヨハネ17・1‐11a「イエスは…天を仰いで言われた。『父よ時が来ました。…世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしはみ名を現しました。…彼らはみ言葉を守りました。…彼らのためにお願いします。世のためではなく、私に与えてくださった人々のためにお願いします。…私は彼らによって栄光を受けました。私はもはや世にはいません。彼らは世に残りますが、私はみもとに参ります。』」 感想 ユダの裏切りが予測されているのに、「 彼らはみ言葉を守りました」はおかしいのでは?「この期に及んでもう泣き言は言わない」ということなのか?もっとも、次節では「滅びの子のほかは誰も滅びませんでした」(12節)と一言。きっと残念な気持ちだったと思う。しかし、これも御父の御手の中でのことなので失望することはない。この割り切りが信者であるかないかの分かれ目となる。信者らしい失望の仕方があることを主から学びたい。 まずはマリア様へのご挨拶

最後の晩餐での長い説教の結びで明かされた苦しい胸の内

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今日のみことば ヨハネ⒗・29‐33「今ははっきりとお話になり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。…」…「今、ようやく信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。…勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」 感想  弟子たちの理解が深まったことに安堵しながらも遅すぎることを嘆かれる主。自分を一人にしてクモの子を散らすように姿を消してしまうであろう頼りない弟子たちの現実を見過ごすこともなさらない。  何よりも印象的なのは 「私はすでに世に勝っている」という 最後の言葉だ。この言葉の真意は十字架上で確かめられることに。「父よ私の霊をみ手に委ねます」(ルカ23・46)。一貫して変わらない主の一途さこそ信者が見習うべき姿。 海抜ゼロm地帯に教会はある

時を重ねれば重ねるほどイエス様の話はスッとこないのは何故か?

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今日のみことば ヨハネ16・23a-28「はっきり言っておく。・・・私はこれらのことをたとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたは・・・」 感想  「その日には」が問題。普段の用法と少し違う意味合いのあることばだ。「今日がその日」という短い英文のポスターを見たのは30数年前のこと。「え?いつのことですか?」という質問を期待していないことはすぐに分かった。「今日が神様が働かれる日です」みたいな意味だと思うが、ヨハネが使う「その日には」も同じ意味。  つまり、弟子たちに聖霊が送られて全てを明らかにする時が来る。そのときになれば、と言いたい。しかし、弟子たちでなくても、聖霊降臨から2000年経った今を生きる私たちにとっても、イエス様のおっしゃることでよく分からないことは多い。  いや、日頃関わっている人々との間においても、相手の気持ちが読めなくて ギクシャクしてしまうことは多い。話が通じなくてもどかしく思うことも多い。  そんなこんなで、誰とでもスッキリした人間関係を築いていきたいというのは夢のまた夢。しかし、そこで終わらないのがキリスト信者。いつになるか分からないが、一人一人に「その日」が約束されているのは間違いない。そう思い直して波立つ心を収めながらイエス様へのギリを果たそうとけなげに生きているのが信者。今日も神様が働いて下さるからそれができる。今日がその日。 近くの土手で満開のアメリカデイゴ(海紅豆)