律法のしがらみからの解放こそイエス様による文明開化の始まりだった

今日のみことば

マタイ5・17‐19「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで律法の文字から一点一画も消えうせることはない。…」

感想

 今朝のみことばを読むと、当時、イエス様の話を聞いた人々の中には、早とちりの人がかなりいたことがうかがえる。「律法なんかに縛られる必要なんかない。わしらはもう自由だー!」そこでイエス様は慌てて修正する必要があった。「チョッちょっと待ってください。私はそう言っているのではありません。律法はモーセが神様からいただいたものだから廃止すべきではありません。そうではなくて、こんなにも沢山の律法ができているが、モーセのあの律法の精神に立ち返ってみるなら足りないことが多い。字面にとらわれずに律法の本心に立ち返ってみないといけません」みたいなことになったと思われる。
 「人にしてもらいたいと思うことをあなた方も人にしなさい」(7・12)といういわゆる黄金律はすでに律法の書にあること。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい」(申命記6・5 マタイ22・40)、「隣人を自分のように愛しなさい」(ㇾビ記19・18 マタイ22・39)。こうしたことは不変。
 人の言動に影響されない人はいないが、どんな時でもこの黄金律に立ち返りたいと思った。これから子供たちとアジサイ公園。
友人宅のガクアジサイ

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