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10月, 2019の投稿を表示しています

私は今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。

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今日のみ言葉 ルカ13・31-35 「・・・私は今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。・・・」 感想 37年前の1972年3月20日の司祭叙階式のために選んだみ言葉が今日の箇所。当時のカードはもう手元にはないが、確か、「・・・歩き続けなければならない」だったように思う。どちらでもいいのだが、「歩き続ける」ほうが生活感があってボクは好きだ。 歩くのは大好きで、野鳥を求めて毎日のように歩いている。それだけでなく、人生の旅を行くのも、歩いて行くというイメージがある。司祭職の旅も、毎日のように歩き回って、教会に来ない信者の家を歩いて探し回ることから始まった。さらに、司祭としての歩みを深める霊的旅も未だに継続中。生涯終わることのない旅だ。だから、「今日も明日も、その次の日も歩き続ける。」信者の旅も同じ信仰者の道。 今日もそんな旅の一コマであるように。 イソシギ 今日も歩く

神を愛する者たちには万事が益となるように働く

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今日のみ言葉 ローマ8・26-30 …神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となる ように共に働くということを私たちは知っています。…」 感想 神を愛する者とは人を愛するということ。現実は、「神は愛するが人は愛せない」という現実がある。実は、そこに大きな問題がある。いや、むしろ、ヤコブに言わせると「そんな信仰は死んだもの」(2章参照)ということになるから大変。 神を愛し、人を愛するとき、どんなことでも受容できる力がある。つまり、意に沿わないことでも、「ま、いいか」と大目に見ることができる。逆に、自分のことで頭一杯の時は心にゆとりがないので、キレやすい。そういうときは、「神は愛しているというが、人は愛していない」ということになる。本物の信仰とは言えない。 「神にもハイ+人にもハイ=信仰」この公式を心に納めて今日を過ごしたい。 Cさんもスタート

命ある自然界の諸々と共存共栄を図る日にしたいが外は雨

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今日のみ言葉 ローマ8・18‐25 「…被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。…」 感想 環境学の出発点となる聖書の箇所。パウロが、人間以外の被造物が、あたかも意志を持っているかのような描写をすることに驚くが、それ以上に、パウロのやさしさを知るような一節だ。世界をめぐるうちに、自然界の営みに感じることも多かったに違いない。そして、創世記の創造の業を思い、壮大な救いの歴史に思いをはせ、瞑想した結果が今日の箇所かと思われる。 種子島にいたころ、前任のイタリア人司祭と一緒に食事をしたときのことだ。「この魚も復活するんですよね。」今朝のみ言葉が彼の中にあったことは言うまでもない。今に至るまで、食べ物をそんな風な思いで見たことはない。ただ、食べ物を粗末にしない。残さない。ティシュペーパーをはじめ、 気ままな消費を慎む。道端の一輪の花から目を引く華やかな色彩の花に至るまで自然界を愛でる心を持つ。特に今日は、そんな一日にしたい。 愛されなくても日本を席捲

教会内の不協和音の原因が多くの要石の存在。しかし、多様性の一致の要石は主だけ。

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今日のみ言葉 エフェソ2・19-22 「あなあがたは、もはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリストご自身・・・」 感想 再び信者間の不協和音について。分かっていることだが、それぞれがかなめ石になろうとするところに最大の原因がある。いや、みんな善意なのだが、その善意さえも見直される必要があることに気がつきにくい。 石組みのアーチの最後の一つが要となって完成し、アーチ型をキープする。その最後の一石を取ると全て崩壊する。 不協和音と言うと柔らかいが、もし、自分が要石になろうとしているのであれば、アーチ、つまり教会は崩壊することになる。あるいは、すでに崩壊している。そのことに気づかないところに悲劇がある。教会のテイをなさない教会。大なり、小なり鹿児島教区の各小教区も例外ではない。 それでも、”まともな”信者たちによって傾きながら崩壊を免れているのが現状。それでも、要石の回復は急務。”多様性の一致”の要石は主ご自身。 2歳児も持久走参加

あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。

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今日のみ言葉 ローマ7・18-25a 「…私は自分の望む善をは行わず、望まない悪を行っている。…」 ルカ12・54-59 「…あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。…さもないと、その人は、あなたを…牢に投げ込む。…最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。」 感想 パウロの葛藤は私たちの葛藤。違うのは、パウロが、そんな自分を正直に認めて、最終的には、「わたしちの主イエスキリストを通して神に感謝いたします」(25節)と肯定的に結んでいるところ。 そして、そんな私たちに、主は更に厳しい。「 あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。」ミサに参加して満足している私たちに、”それだけだったら、結局は牢に入れられて不自由になるようなものだ”と言われる。あまりにも飛躍しているようで戸惑うが、分かるような気もする。 神様にまっすぐつながるのは基本だが、十字架には横木があってあたかも周りの人間関係を指し示しているようだ。しばしば、この周りの身近な人々との関係に躓いている教会の現実は多い。主の叱責を謙虚に受け止めたい。 「 あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。」 チョウセン朝顔(本名はルコウソウ)

分裂をもたらすために来たイエス様の真意は”ありのままの自分と出会うこと”

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今日のみ言葉 ルカ12・49-53 「…わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。…」 感想 ”平和ではなく分裂をもたらすために来た”と言われる主の真意はどこにあるのか。主を選ぶ人と選ばない人の差は大きい。その差は家庭の中でも起こる。特に日本では一人信者が多い。なるほど、「この現実を指しておられるのか」という理解では意味がない。信仰生活の落とし穴はこうした「理解だけで終わること。」 信仰は理解するという”頭の体操”ではない。回心こそがいのち。回心なしの信仰は「死んだもの」(ヤコブ2・17)で無意味。 ここで言われている分裂は「不仲になって分裂する」人間関係の破綻を意味しているだけではない。 ありのままの自分、と言われても、ピンとこない人は多い。つまり自分自身がよく見えていない人は多い。もっと言えば、自分自身と出会っている人は多くない。よく言われるように、自分のことはよく分からないという現実がある。それが問題。 一番大きな問題は、「ねばならない」「すべき、すべきでない」などの発想が癖になっているとき、人は、周りとの協調が難しくなる。自分の考えに固執し、聞く耳を持たず、相手をさばき、おおらかさに欠けるので周りの人をも窮屈にしてしまう。そんな愛に反する生き方をしている自分に気づかない信者は多い。 そんな生き方に決別するように促しているのが今日のみ言葉。 お祈り先唱

多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は更に多く要求される

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今日のみ言葉 ルカ12・39-48  「・・・多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は更に多く要求される。」 感想 指導者たちに向けられた言葉と言うことらしいが、結びの言葉は、明らかに信者に向けられたものと理解した方がいい。なぜなら、ミサという最高の食卓に招かれているのは信者だけだからだ。もちろん、もはやミサに来なくなった信者もいるが、これは別のこと。ここでは、主の食卓に与っている信者のこと。 ミサに与るのは、いわば一握りの信者かもしれないが、イエスさまの期待の大きさを忘れてはならない。つまり、御聖体拝領すると言うことは、主の期待を頂くということ。主の平和を告げ知らせる使命を受けるということ。今日もそんな一日となることを祈りたい。 シスターのこと演奏

今日も給仕してくれる主からのサービスを拒むことのない一日となるように

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今日のみ言葉 ルカ12・35-38 ・・・主人が帰ってきたとき、目を覚ましているのを見られる僕は幸いだ。・・・主人は帯を締め、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。・・・ 感想 主ご自身がそばに来て給仕してくれる。よく考えると、私たちの毎日はそのようなものだと言える。毎日の出来事や出会う人々は、実は、私たちが人間的にも、何よりも信者として生きるために必要なこととして主が計らって下さったこと。この大原則があることを忘れてはならない。「自分の好み優先」だとこの原則は崩れてしまう。つまり、信者らしい生き方には成長が見られないことになるから気をつけたい。そんな思いで周りを眺めることが「目を覚ましていること」。 今日も、取りこぼしのない一日となって、「神に感謝」で一日を締めくくりたい。 みんなでサービス

アブラハムは、希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じた

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今日のみ言葉 ローマ4・13,16-18 「・・・存在していないものを呼び出して存在させる神をアブラハムは信じ、・・・希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じ、・・・」 感想 現代人へのチャレンジ。何よりも信者たちに対する強烈な問いとなって迫るアブラハムの信仰。ため息をつくことは多いが、「それでも・・・」と言って自らを奮い立たせながら、あえぎつつ生きているのが現実。あえぎながらも、目の前にないものをあるようにして下さる神の全能を今日も信じながら、身近なところでは、苦手な仲間の信者を受け入れていきたい。そして、台風被害でひどい状況にある人々のために祈り、早い復興を信じたい。 湯布院・金鱗湖

神の国が近づいている実感を持つことは多くはないのだが…

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今日のみ言葉 ルカ10・1-9 72人の派遣 感想 派遣された弟子たちが伝えるべきメッセージは「平和があるように」。しかし、もし、歓迎されない場合は、 足の塵を払って 町を出て行くように。その時の捨てゼリフまで教えられた。 「…神の国が近づいたことを知れ!」なるほどこんな捨てゼリフもあったのかとあらためて思う。 日本の場合、石を投げられたりすることはないとしても、事実上、大半の国民はキリスト教を拒んでいる。そういう意味では、日本の信者は、毎日この捨てゼリフを言わなければならないことになるが、第一、信者自身、「神の国が近づいた」と感じているわけではない。むしろ、世の中はますます悪くなっている感じがする。そういう意味では、そんなセリフを口にする人まずいない。それでも、「あの人にも、あの家庭にも、神の国が来ますように」と祈るのは信者の務め。 クイーンネックレス

神様の忍耐にあやかる毎日を神様ご自身はどうご覧になるのか

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今日のみ言葉 ロマ3・21-30a ・・・神は忍耐してこられた・・・ 感想 ”神様の忍耐”というテーマはパウロには実感としてあったと思われる。キリスト教徒迫害の先頭に立っていたのだから。「自分は正しいことをしている」というのは単なる思い込みでしかなかった」と気付くまでの神様の忍耐。「自分が、目が覚めるまで、神様は待ったおられた」というパウロの気持ちが伝わるような箇所だ。 パウロほど、ひどいことをしてきたとは思わないが、それでも人にも神様にも忍耐を強いてきたことは間違いない。若い頃を思うと、“正義の味方”とばかりに怒りの日々だった。今も、国の施策には怒りを覚えることはあるが、一番身近な教会に対してはおかげでなんとか穏やかになれるこの頃だが。 逆に、忍耐を強いられる現実は毎日だ。神さまの忍耐に比べたら取るに足りないとはいえ、それなりにタイヘン。これまでの穴埋めとして耐えるだけかもしれないが。そのことで、もっと穏やかに寛大になれたらいいとは思う。 なぜか、隙間が・・・これも忍耐するか

神のみ言葉はどうしてこうも厳しい言葉が多いのか?と思う。

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今日のみ言葉 ロマ2・1-11 …神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。… ルカ11・42-46 感想 食事に招待された先でファリサイ派や律法学者たちを悪しざまに攻撃するイエス様の激しさは、読んでいるボクにとっても威圧感十分。それだけでなく、ここで何を学べばいいのか戸惑う。なにも響かないのでロマ書から。 パウロも厳しい口調なので引いてしまうが、引用した4節から。「…神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。…」この一節だけが心に留まった。「神の憐れみ」は手元の英語訳では「神のkindness( 親切)」となっていて新鮮。神の親切という言い方は初めてだが、神様がグッと身近に感じられていい。「神の憐れみ」は”高みから来る”感じだが、「神の親切」は寄り添ってもらている感じでホッとする。寄り添ってもらっていると感じるとき人の心は、確かに変わる。分かっているのだが…。ある人には難しい!と感じる自分がある。 ともあれ、神の親切を思いながら過ごす一日にしたい。 秋晴れの下ディズニー体操

形式主義はそれほどあくどいとは思わないが言行不一致はアク?

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今日のみ言葉 ルカ11・37-41 感想 13(日)ー14(月)開催の教区シノドスは多くのボランティアによって準備されたもので、信徒手造りという雰囲気で、とても斬新な感じだった。Aグループでの分かち合いがなされた。テーマは「聖書に親しんでいるか」。現状と問題点が指摘され、改善策を探るというやり方だった。 聖書に親しんでいる人ももちろんいたが、大半は無関心ではないか、という現状の指摘。事前アンケートで指摘されていたのは、「信仰と生活の遊離」。これは永遠課題と言えるかもしれない。 今朝の福音では、まさにこのことが指摘された。ファリサイ人たちの形式主義がイエスさまから厳しく糾弾された。ご馳走に招かれたのに、「アンタらは強欲と悪意だらけ」と非難するイエスさまの愚直なまでの率直さ。思わず、不安になるが、「ワタシらのことを同じようには言われることはまい」との思いはある。しかし、形を気にするのは人間誰しも同じ。 とは言っても、言行不一致は、これまた誰にもあることだが、人知れず猫の目のようにくるくる動く自分の心の動きを正直に見つめたい。聖書で、言葉はおtになって口から出る前の思い。その思いと言葉が一致するのが正直。いろんな思いがるので、言葉にした方がいいものと、そうでないものがあるのは当然。識別も大事な信者のしるし。 分かち合い

温泉浴ぐらいで満足していてはケチがつく?

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今日のみ言葉 ルカ11・27-28 感想 イエスさまの話に感動した女性が思わず叫んだ。「あなたのような方を生んだ母上は何と素晴らしいことでしょう!」「いやいや、そんなことが問題ではなくて、神の言葉を聞いて実際にそう生きることの方が素晴らしいのです。」 前者の女性のように、物理的に近いかどうか、例えば有名人がお隣に住んでいる、などの場合、そのことを自慢したくなる心理を「栄光欲」と言うらしい。誰にでも働く心理だ。それは素朴で、ある意味可愛い。しかし、そういうことよりも、神のみ言葉をいただいていることを誇りとし、そのように生活できることこそ素晴らしいことなのだという、いわば人生の質が問題。 ボクの場合、毎日の司祭館での温泉浴、それも疲れを取る効果があるという大好きな塩湯に身を浸すとき、思わず口にするのは、「あー幸せ、幸せ!」イエスさまは何とおっしゃるだろうか。 金鱗湖のアオサギ。幸せ?

神様からもらった良心の声さえも失った非人間と化した4人

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今日のみ言葉 ルカ11・15-26 「私に味方しない者は私に敵対し、私と一緒に集めない者は散らしている。」 感想 人にとりつき人の尊厳をはく奪し、人としての品位を喪失させて喜ぶのが悪霊。そんな悪霊から解き放ち自由の世界に招くのが神の国。いわゆるサタンの働きを実感したことはないが、いわゆる悪魔的な生き方をする人々なら知っている。といっても、ニュースで知ったことだが。 こともあろうに子供たちの教育に従事する4人(だったか)の先生たちが同僚をいじめ、いじめられた一人は精神的に異常をきたしているという。信じられないような話だが、実話だ。サタンにとりつかれた集団だから「即首!」と言いたいところだが、反省して済むような話ではない。こういう手の失格教師は更生施設に送り、奉仕作業やその他の厳しいノルマを課して悔い改めさせる必要がある。退職届を出しても受理してはならない。人の痛みが分からないまま放り出しても本人はもちろん世の中のためにならない。教育長が謝ったりしてはならない。徹底して本人たちの責任を追及しなければならない。悪いのは、校長先生でも教育長でもない。本人たちが問題。学校教育の風上に置けないだけでなく、風下において臥薪嘗胆しかない。 神様からもらった良心の声さえも失った非人間と化した4人。悔しいが、神様の目から見たら救いの対象ではあるのだが。 収穫の秋、実りの秋。○○は不作の秋

トンガッタ信者たちがいても創立者は意に介さない?

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今日のみ言葉 ルカ10・38-42「・・・マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことは一つだけである。・・・。」 感想 「必要なことは一つだけである」と断言できるほど、クリアーではないが、確かにあれもこれもと頑張っている人は多い。そういう自分もかつてはそう言われた。もう少し腰を落ち着けなさいという忠告も受けた。自信がなかったのだ。だから、アレもコレもと手を広げた。その分、世界が広くなったことは間違いない。だから、今は言いたい。若いうちはアレもコレも関心を持った方がいい。しかし、ある程度年行ってからは、偏見だが、みっともない感じがする。 ところで、突然だが、「日々穏やかに平和な小教区」は夢のまた夢?バランスを取るのがの難しいトンガッタ信者はどこにもいるが、今朝の福音を読んで、コレは、創立者も折り込み積みだったかもと思えた。だから、でこぼこがあって当たり前。あっちでゴツン、こっちでゴツン、も驚くことはない。第一、被害者意識に駆られて妹を咎めたマルタは今や聖人だ。「問題の人」に一喜一憂する必要はない。やっと、たどり着いた結論だ。ボクのでこぼこが平らになった感じ。 ダイサギたちの夕暮れ

中国にもいた良きサマリア人をやった日本人が

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今日のみ言葉 ルカ10・25-37:良きサマリア人 感想 「行って、あなたも同じようにしなさい。」よせばいいのに、律法の専門家がイエス様を試そうとしたのがいけなかった。「私の隣人とは誰ですか?」結局は、とんでもない宿題をもらう羽目になったのだから。「あなたも、あの良いサマリア人のようにおしまずに人助けをしなさい。」なかなかできるものではない。 NHKでラグビーのワールドカップのことを大げさなほどに言うものだから、そのまま待っていたら、ブラタモリ。好きな番組だが、「今日はラグビー」と思ったが、チャンネルが分からないので民法をガチャガチャやった。すると、 中 国 黄河流域のどこだった か 、砂漠化から村を救った日本人という番組に遭遇。日中戦争(1937年~1945年)の頃だというから、そんな大昔ではない。当時通訳をしていた女性がまだ健在という。主人公の名前は忘れたが、反日感情も激しい頃も緑化運動を中断しないで、嫌がらせを受けたり、自然災害等で何度も失敗しながらもあきらめずに頑張った。そのうち村人の協力も得られるようになって、ついに、80歳過ぎて、砂漠化のため消滅した村を再生させたという。生前に銅像が建てられたのは毛沢東と二人だけ。ご本人は97歳で十数年前他界。 中国の人々にとっての良きサマリア人。 巷の聖人に心が震えた。 おかげで、ラグビーは半分だけだったが。 ところで、隣人になろうとしても、自ら離れる人がいたり、我が道を貫いて孤立を深めたり、同じ信者とはいっても、一筋縄ではいかない現実に日々慨嘆。主の苦労は終わることがない。子供のようにならなければ隣人にもなれない? 午後の外遊びに興じる子どもたち

ア~コラジン!ア~ベトサイダ!・・・。主の嘆きは今日もやまないのだが

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今日のみ言葉 バルク4・5-12,27-29 ルカ10・17-24 感想 昨日の主は 慨嘆しきり。 「ア~コラジン!ア~ベトサイダ!・・・」しかし、 今日の主は、 昨日と打って変わって大ご満悦。饒舌?と思えるほどになめらかな口調。それというのも、派遣した77人が帰ってきて、獅子奮迅の働きの成果を喜々として披露したからだ。報告を聞いた主は「そうかそうか、ワシも見ていたぞ。アンタたちのひと言で、サタンが天から落ちるのを。よくやった!」みたいなことを言われて労をねぎらった。 そして、身を震わせながら歓喜し、思わず手を合わせて天の父に賛美の声を上げた。「天地の主である父よ、あなたを褒め称えます。・・・」 昨日の落ち込んだ主と、今日のこのハイテンションの主との落差は、主の人間性の一面を見たようで親しみがわく。 それはそうと、「子とは誰のことか、父とは誰のことか」はっきり分かっているのは弟子たちだけ。つまり信者だけ。それは、特別に目をかけてもらった「彼らだけに」示されたこと。その独自性に、弟子たちも、信者も気づいて欲しい。そんな主の思いを感じたい。信者に対する主の期待の大きさをも。 地中の秘密を知っているのはソリハシギだけ

主の嘆きの深さは、一番身近な人々に受け入れてもらえなかったこと

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今日のみ言葉 アシジのフランシスコの記念日  バルク1・15a-22  ルカ10・13-16 感想 あーコラジン、あーベトサイダ、あーカファルナウム!いずれも、ガリラヤ湖北部の町で、カファルナウムはイエス様が居を定めたところで、ベトサイダはペトロやアンドレの故郷。文字通り、預言者故郷に入れられず。 イエス様の嘆きとは比べようもないのだが、 わが故郷の人口は6000人で当時とさして変わらないとしても、教会は高齢化が進み先細り状態。出るのはため息ばかり?「あーっ!」 ところで、主のため息に弟子たちは慰めの言葉も見つからないまま、頼りなげに顔を見合わすだけだった。そんな様子が浮かぶのだが、さて、ごたごたの絶えない私たちの現実を見て主はやはり、ため息をつかれるのだろうか。そうかもしれない。死と復活という神秘を示されたにもかかわらず、いまだにその信仰を生活化しきれていない現実は、きっとため息ものだと思う。 教会にしろ、幼稚園にしろ、大人が作る集団に問題は尽きない。問題は新しい始まり。そんな信仰が試される毎日だ。そんなこんなで、一日が終わりかけたころになって、”今日もまた思いを新たに”。それだけに、充実感はあるのだが…。どうせなら、もっと楽に感じたいとは思う。 教会の2倍2倍は夢のまた夢

信者の捨て台詞が「勝手にしやがれ!」ではないとすれば?

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今日のみ言葉 ネヘミヤ記8・1-4a,5-6,7a-12 ルカ10・1-12 感想 宣教に派遣された弟子たちのメッセージは「主の平和があるように」だった。拒まれたら「足の塵を払って」退散するだけ。捨て台詞は「主の平和があるように」。ここまで書いて思い出した話がある。先月30日の諸宗教懇和会の講演で聞いた話で「常不軽(じょうふきょう)菩薩の精神」。つまり「誰もが菩薩になれる」という思想。それにはこんな逸話がある。 ある村に、「私はあなたを決して軽んじません( 常不軽(じょうふきょう) 」と同じことを繰り返す修行僧が現れた。「うるさい」と言われようが、「あっち行け」と追い立てられようが、同じことを大きな声で繰り返すので、村人はとうとう我慢できなくて「そんなことワシらにはどうでもいいことだ」と言って追い出した。彼の最後の言葉はやはり、 「私はあなたを決して軽んじません」だったという。自分を追い出す人々も菩薩になれると信じていたからだ。その後人々は彼のことを「 常不軽(じょうふきょう)菩薩」と呼ぶようになった。 ところで、「みんな神様の子ども」であると信じているなら、どんな状況に立たされても、腹立たしい状況に立たされようが、最後に、信者の口から出る言葉は「主の平和」以外にない。「 常不軽(じょうふきょう)信者」を目指そう。 満開のボウズバナ

教会内のごたごたが絶えない決定的な理由は分かったのだが…

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今日のみ言葉 ルカ9・51-56 感想 エルサレムを目指して進む一行をサマリア人たちは遮った。仲が悪かったからだが、ルカは、「エルサレムを目指しておられたから」と言う。弟子たちが、「日の雨を降らして焼き滅ぼしましょう」と言ったがイエスさまは彼らをたしなめて他の村に行くことにした。 エルサレムを目指すということは、拒絶と苦難、そして復活を意味した。教会の中でごたごたが絶えない理由のもう一つがここにある。「拒絶と苦難が復活の前提」であることが一貫していないから。 具体的に拒まれなくても、「無視された、邪魔された」という類いのごたごたを回避するためには、エルサレム行きを変更されて主のおおらかさに倣うこと以外にない。それぞれの主義主張を貫くならあなたの復活はないだけでなく、あなたはキリスト者ではない。弟子たちを叱った主からのメッセージだ。心したい。 力を合わせて