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11月, 2019の投稿を表示しています

主は、一家の働き手を同時に二人も失うことの意味を知っておられた?

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今日のみ言葉 使徒聖アンデレの祝日 マタイ4.18-22 「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。・・・二人は網を捨ててすぐに従った。・・・」 感想 いつも思うことだが、「一家の働き手を二人も失うことがどれだけの結果を招くことになるのか知っておられたはずなのに」。しかし、当時のユダヤ人たちにとってメシア待望論がちまたでも高まっていたらしいので、そんな気運にうまく乗ったと考えられなくもない。そして、この家族の中でも、きっと話題に上がっていたのかもしれない。 実際、もう一組の兄弟ヤコブとヨハネが、あるとき、「栄光をお受けになるとき、私どもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせて下さい」(マルコ10.37)と願ったことになっている。「私どもの家庭からそんなお方の弟子が出るなら願ってもないこと」と二人の両親は思ったのかもしれない。「それまでは、二人でナントカ頑張る。」 もちろん、弟子たちはいずれ、彼らが思い描いた「地上のメシア、あのダビデ王の再来」でないことを知ることになるのだが。 ともあれ、今日も、気持ちよく、「ハイ!」の気持ちで身近な人々と共に生きていきたい。一人一人の、二つ目の拝領。 日本人の心に今も響き続けている

あなたがたあは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。

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今日のみ言葉 ルカ21.29-33 「いちじくの木や、ほかの全ての木を見なさい。葉が出始めると、既に夏の近づいたことが自ずと分かる。・・・」 感想 時のしるし。一頃、はやり言葉のようにカトリック新聞でも盛んに見たものだが、最近は全く見なくなった。気候変動や環境破壊の問題と役者交代の感がある。ともあれ、「時のしるしを読む」ともよく言われていたように思うが、何か預言者めいて市井の民には少し遠い。日々の生活で、むしろ、大事なのは「空気を読む」こと。さらには、「人の気持ちが読めない」ことが、いざこざのもとになっている。季節の移り変わりを読むのは自然にできても、自分が身近な人々の中でどんな影響を及ぼしているかに気づくのは難しい。「分かってくれ!」と声を上げたくなることもある。そういう自分も、人に我慢を強いているところがあるはずだが・・・。 いずれにしろ、自分にとって、今日が、周りの人々に心地いい風、喜びをもたらす神の国の風を吹かせることができる日となるように。アーメン。 パパさまが377円

身を起こして頭を上げなさい。あなた方の解放の時が近いからだ。

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今日のみ言葉 ルカ21.20-28 エルサエム滅亡の予告 感想 エルサレムは、西暦70年、ローマ軍によって滅ぼされた。心のよりどころを失ったユダヤ人たちは各地に離散した。いわゆるディアスポラ(民族離散)。元々は、植物の種などがまき散らされたことをいうギリシャ語。 前回は迫害の話で、今回は滅亡と暗い話が続く。さすがに、私たちには縁のない話に聞こえてしょうがない。確かに、異常気象による天変地異(山火事に台風被害等)は他人ごとではないとしても、被害を免れている身としては、今日のみ言葉からくる特別な感慨はない。 そうはいっても、最後の一言に思わず立ち止まった。「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなた方の解放の時が近いからだ。」 日常生活の中で、思わずため息をつきたくなったり、大変だなあと重たい気持ちなったり、何となく心が元気でなくなったりしたとき、「それは、新しい始まり!」そう言われた感じがしたからだ。「身を起こして頭を上げること。解放の時が近いから。」下を向きたくなったら、身を起こして上を向く。具体的でいい。新しい始まり!今日の合言葉。 お会いしたいと思っていました

人々はあなた方を迫害するが、それはあなた方にとって証をする機会となる

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今日のみ言葉 ルカ21.12-19 「・・・また、私の名のために、あなた方は憎まれる。しかし、あなた方の髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなた方は命を勝ち取りなさい。」 感想 当時のような血を流す迫害は、少なくとも日本ではもはやない。しかし、毎日の人間関係で、大小さまざまなすれ違いは多い。ムッとすることもあれば、違いに気づくだけで済ますこともある。悔しいと思うこともある。惨めな気持ちになることだってある。猫の目のようにくるくる変わる心は興味深いと言えば興味深い。 そんな自分の生の姿を見るにつけ、情けなくなるだけなら、あなたはただの人。今朝の福音で主は言われる。「それは、・・・証をする機会となる。」そんな否定的な感情になることは自然なことだが、そんな自分に気づいて、気持ちを立て直すことができたら、少なくとも自分自身に証しをしたことになる。人知れずなされるそんな密かな証しこそが求められている。 お疲れ様でした

核兵器は、国家の安全を保証するものではないと心に刻む

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今日のみ言葉 ルカ21.5-11 神殿崩壊の予告 「・・・『あなた方はこれらのものに見とれているが、一つの石も残されずに多の石の上に残ることのない日が来る。 』・・・」 感想 弟子たちが神殿の壮大さに打たれて眺めているのをご覧になって言われたのが上記の予告。実際、70年に神殿はローマ軍によって崩壊した。 教皇の長崎でのスピーチと重なる。「軍拡競争は貴重な資源の無駄遣いで、武器はいっそう破壊的になっています。」あらゆる武器を製造し持つことは「途方もないテロ行為です。」「非核化など非現実的」と言うトランプ大統領は何と聞いただろうか。昨日の首相の言葉を聞いて、教皇は、「口ばかりではダメです。非核化条約に批准しなさい」と言いたかったのではないか。 ところで、度重なる甚大な台風被害は、もはや異常気象によるとは言えない。これはもう「危機だ」と誰かが言った。まさに終末的な感すらするのは確か。各自が、もっと本気にならないと温暖化は人類を滅ぼしてしまう。身近なところでのエコがカギ。 非核化を世界に発信

確かに言っておくが、この貧しいやもめは、誰よりも沢山入れた

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今日のみ言葉 ルカ21.1-4 やもめの献金 感想 見るとはなしに見ていると、明らかにやもめと分かる貧しい身なりの女性が賽銭箱にお金を入れた。「レプトン銅貨二枚」は2円ほど。「誰よりも沢山入れた」と言われた。やもめの思いは知るよしもないが、それに、有り金をみんなはたくのもどうかとも思うが、奉仕にしろ、何にしろ「惜しまない」気持ちは大事かと思う。 フランシスコ教皇が、千人あまりの貧しい人々を食事に招いたことが報道されていた。「一人当りいくら?」思わず計算したくなったが、アレはいわばバチカンの国家事業。誰も「無駄遣い」とは思わない。 毎日の生活で、時間を惜しむ、関わりを惜しむ、親切な言葉を惜しむ、などなど。ケチな自分を認めざるを得ない。フランシスコ教皇のように、どんなことも、アレコレ考えずにスッとできたらいいのにと思う。今日もそんな惜しむ自分と直面して自分を超えられたらいいのだが。 テレビが宣教してくれた

神は死んだ者の神ではなく生きている者の神なのだ

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今日のみ言葉 ルカ20.27-40 「・・・神は死んだ者の神ではなく生きている者の神なのだ。・・・」 感想 当時のユダヤ人は、サドカイ派以外、復活を信じていた。そのサドカイ派の質問が、いわゆるレビラート婚。子孫を残すことが重要なことだったので、7人兄弟がいたとして、長男が子なしで死んだら、次男が同じ人を妻にしなければならないという決まりがあった。こうして、7人とも子なしで死に、ついに奥さんも亡くなったとして、復活したとき、この女性は「誰の妻になるのか」というのが質問の大意。 イエスさまの答えを読んで、今度はボクが質問したくなった。「・・・次の世に入って死者の中から 復活するにふさわしいとされた人々 は、めとることも嫁ぐこともない。・・・」「では、復活するのにふさわしくない人もいるんですか?」と聞き返したくなるではないか。最終面接があるとして、聞きたいことの一つだ。 それはともかく、神は生きている者の神だから、分かりきったことだが、今、この時、神様に真っ直ぐつながった生き方を貫くことが大事ということになる。それはそうと、指宿からも教皇ミサに出かけた人たちが7名もいる。旅の安全が守られ、主との出会いの巡礼となるように。そういえば、日本でもローマ法王ではなく、教皇と呼ぶことにした。わざわざ呼びかたの変更について報じた。日本の教会がやっと認知された感じだ。 日本のマスコミもやっと同じ土俵に上がってくれた

「生ける神の神殿」である私たちにイエスが渋い顔をされるのはいつ?

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今日のみ言葉 ルカ19・45-48 「イエスは神殿の境内に入り、そこで商売していた人々を追い出し始めて彼らに言われた。『私の家は祈りの家でなければならない』…」 感想 いわゆる神殿清めの話。マルコのような大立ち回り(マルコ11・15)はないが、「私たちは生ける神の神殿」(2コリント6・16)とパウロが言うように、今日の箇所は、信者である私たちのこととして理解したい。とはいっても、「あなたたちは強盗の巣にした」とは言われないとしても、しばしば 渋い顔をされることがあるの ではないか。 素直にハイが言えない、簡単に自分の非を認めようとしない、人の良さを評価できない、すぐにケチをつけたがる、などなど。信者の生き方を、生ける神の神殿を汚していることになる。そうではなく、良さはよさとして受容できる自分。おおらかな心で共感できる自分。心穏やかに違いを受け入れることができる自分。そんな一日にしたい。 キミはキミ、ボクはボク

もしこの日に、おまえも平和への道をわきまえていたなら・・・

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今日のみ言葉 ルカ19・41-44 「・・・イエスはその都のために泣いて言われた。『もし、この日に、おまえも平和への道をわきまえていたなら・・・。』しかし今は、それがおまえには見えない。・・・。」 感想 平和への道は心穏やかに生きる道。そんな風に理解するなら、泰然自若裏切りに会おうと、ゲッセマネの園で逮捕されようとじたばたしない。何故それができたのか。イエスさまには全てお見通し。全ては御父の見ての中でなされることだから、岡神父さんのように、何でも「頂きます!」100%委ねて生きることができた。それが私たちの「主」。 そんな主に倣って生きようとするとき、意に沿わないことに対しても、気の合わない人に対しても、心穏やかに生きることができそう。できそう、と人ごとなのは、頭で描いた青写真だから。いずれにしても、それが身近な人々との毎日の平和への道。そう念じながら、今日も主に倣う日としたい。で、今日の合い言葉は「頂きます!」 共存共栄

今日もあなたの1ムナ(あなたらしさ)が光る日となるように

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今日のみ言葉 ルカ19・11-27 感想 ムナのたとえ。1ムナは約6000円。当時の政治情勢を反映しているらしいが、あまりピンとこない。マタイにも似たような話があって、預かったお金を地中に保管して活用しなかった僕が叱られる点は共通している。ただマタイの場合は、お金がタレントになっていて、日本語にもなっているので分かりやすい。いずれの場合も、期待に応えなかったという点では同じ。 この視点に立つと、信者も期待されている点では、お金を預かった僕と立場は同じ。しかし、僕たちのように清算を求められたことがないので、期待されていると言われても、やはり、他人事の感は免れない。清算を赦しの秘跡とすることもできると思うが、それとて、自分の場合も一年一回か二回では心もとない。 しかし 、信者にとって、 「清算はいつなされるか」が問題ではなく、毎日の生きる姿勢こそが問題。自分が預かったものを「自分らしさ」と考えるならそれをいかに発揮できるかが問われている。それを明確にするのも容易ではないが、もっと、柔らかく言えば、「自分なりに、自分の味を出しながら信者らしく生きる」ことが大事ということになる。今日もあなたの1ムナが光る日となるように。 七五三で捧げた花

日本人の不得意な?「ことば」こそ、実は、日本人信者にはむしろ有利となりうる

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今日のみ言葉 ルカ18・35-43 「…『何をしてほしいのか』「目が見えるようになりたいのです。」…」 感想 「日本人は言葉の民ではない」とつくづく思う。お医者さんは別だと思うが、全盲の人が、「憐れんでください」といってそばに連れてこられた時、 日本人なら、「どうしてほしいの?」と聞くことはないと思う。「ああ、かわいそうに。目が見えるようになりたいのだね」と察してあげるはずだ。 そうはいっても、「はじめに言葉があった」(ヨハネ1・1)のだから、み言葉そのものの主からすれば自然なことではあるが。実は、ここが、問題。日本の文化とは対極にあるように思うからだ。言葉と思いやり。しかし、確かめるためには言葉が必要。だが、日本人はそれほど神経質ではない。だから、”小さな親切大きなお世話”にもなったりするのだが、それはそれとして、「人がいいから」だったり「良かれと思ってしたのだから」ということで終わる。 しかし、言葉は”寸鉄人を刺す”の通り、人を傷つけて取り返しのつかない事態に発展することもある。そんな危うい感じのする”ことば”が信者にとっては”いのちのことば”。実は、日本人であることの利点は、「思いやって生み出される言葉」こそが”いのちのことば”となって人々の心に届く。 「思いやりの後で生み出される言葉。」日本人信者の強みではないか、と気がついた。 七五三の日、子どもたちがささげた感謝のしるし

夜明けは近い!夜の闇に響く預言者たちの声を聞けた知恵ある者の言葉

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今日のみ言葉 知恵の書18・14-16、19・6-9 「沈黙の静けさが全てを包み、夜が速やかな歩めで半ばに達したとき、あなたの全能の言葉は天の王座から、情け容赦ない強者のように今野滅びの地に下った。・・・紅海には妨げるもののない道ができ、逆巻く波からは草の生えている平野が出現した。・・・」 感想 知恵の書は、紀元前80年代に書かれたと言われる。ローマの支配下にあってメシア待望論が人々に希望をもたらしていた時代と思われる。そんな人々の希望が単なる妄想ではないことを裏付けるかのように、出エジプトの記憶を呼び覚ましている感じのする箇所だ。また、バビロン捕囚を体験した先祖たちにも思いをはせているのかもしれない。 様々な苦難の後にやってくる神様の救いの業に信頼を置くように促しているようにも思う。そして、そのメッセージは現代の私たちにも、いわば有効。なぜなら、私たちは、 知恵の書の時代の人々が知らない 新しい出エジプトである主の死と復活を知っているからだ。いや、信じているからだ。今日もそんな信仰を証しする希望の人であるように。 もうすぐゴール!がんばれ!

神を信じないのは作品を前にして作者をしらない人のよう。

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今日のみ言葉 知恵の書13・1-9 「・・・宇宙の働きを知り、それを見極めるほどの力があるなら、何故それらを支配する主をもっと早く見いだせなかったのか。」 感想 知恵の書は紀元前2世紀頃、エジプトのアレクサンドリアで書かれたという。今日の書き出しがいい。「神を知らない人々はみな生来むなしい。彼らは目に見える良いものを通して、存在そのものである方を知ることができず、 作品を前にしても作者を知るに至らな かった。」まさに知恵ある人々の洞察は素晴らしい。「私たちは神の作品」(エフェソ2・10)というパウロもこの個所にヒントを得たに違いない。 絵画にしても、「すばらしい!誰が描いたの?」とまず作者を知りたくなる。しかし、自然界は、あまりにもスケールが大きく動的なので、「作者は?」と聞くのも忘れるほどに つい見とれてしまう。当時も今も、「 作品を前にしても作者を知るに至らな」いひとびとがほとんどだ。 「私という作品」を誇る必要はないと思うが、それなりに評価できないなら、本当の信者とは言えない。今日は「神様の作品である自分」にどんないい言葉をかけようか。 オーストラリア産ヤギ肉の野菜丼‐作者撮る

今日は、「神の国はあなた方の間にある」ので人間関係を見直す日

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今日のみ言葉 ルカ17・20-25 神の国はあなた方の間にある 感想 「あんたが言うその神の国とやらはいつくるんかね。」聞く耳だけでなく見る目も持たないファリサイ人たちの意地悪な表情が浮かぶようなシーンだ。 神の国は、神の支配ということなので、奇跡はまさにその印だが、ファリサイ人たちにはそう思えない。 今日の後半部分は分かりずらいが、 全体のカギとなる言葉は「 神の国はあなた方の間にある。」 人々に寄り添い、身をもって神の愛を説かれる姿こそ「神の支配。」”支配”という言葉は堅いが、分かりやすくいえば、雰囲気。口ではいいことを言っても、その人の醸す雰囲気が、上から目線では誰も聞こうとはしない。第一、人々の心には届かない。頭の体操で終わる。神の国は、心と心の響き合い。 今日も身近な人々との間で心地いい音色が響き合う一日となるように。 ボク、イソシギです。友達になってくれる?

皮膚病を癒やされた10人の内サマリア人だけが戻ってきた。何故?

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今日のみ言葉 ルカ17・11-19  10人の重い皮膚病患者が癒やされたが、「大声で神を賛美しながら戻ってきた」のはサマリア人、つまり「外国人」一人だった。 感想 サマリア人はユダヤ人にとっては「外国人」で異教の神々を礼拝する穢れた民として軽蔑の対象。そのサマリア人だけが感謝のためにイエスのもとに帰ってきた。他の9人、つまりユダヤ人は全員帰ってこなかった。どこに行ったのか。 イエス様は、「感謝の心がない」と直接的咎めをしなかった。 なぜか?9人は、同じユダヤ人同胞から、重い皮膚病ゆえに排除されていた。「病は完治した」とのお墨付きを祭司にもらったことで、晴れて、一般市民に戻れた。「ユダヤ人として人々の中で人並の生活がしたい」という切なる願望が達成できた。で、彼らは、先ず同胞にきれいになった体を見せに走って帰ったにちがいないのだ。 同じユダヤ人として彼らの気持ちが痛いほどわかるイエス様としては、「感謝がない」と強い口調での咎めは控えざるを得なかったのだと思う。しかし、「皮肉にも、『感謝すべきことにきちんと感謝できることは宗教、人種の違いを超えて尊いことだ』ということを、あなた方が軽蔑しているサマリア人が教えてくれた」と言いたかったのではないか。 そうだとしたら、イエス様は、やはり、諸宗教懇和 会の元祖。いや、キリスト信者はすべからく 諸宗教懇和 会のメンバーということにならないか。今日も、分裂ではなく、和解の使徒であるように。 みんなを和ませた昨晩の月のように…

「取るに足りない僕」感が小教区の平和を作ると信じる。頭でなく体で。

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今日の聖人 教会一致のために貢献したスラブの人聖ヨサファト司教殉教者 今日のみ言葉 ルカ17・7-10 「・・・命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなた方も同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『私どもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」 感想 今日のみ言葉は、「一日七回でも許すように」と言われた弟子たちが、口あんぐり、思わずフリーズした後の話。連続性があるかどうか分からないが、「取るに足りない僕」意識を持つことが求められていることでは昨日と同じ。「自分がなにものか」の意識が強いと、自分に罪を犯した人が謝っても、すぐに「ウン」とは言えない。同じように、「アレも私がした、コレも私が・・・」との思いが強いならイエスの弟子とは言えない。 神の支配のもとでは、誰もが、「取るに足りない僕」。特に、教会内における人間関係の 些細なゴタゴタの原因は自分がトンガって 「取るに足りない僕」感が希薄だから。 心したいと思いと思う。 いかにも自信ありげなウのリーダー

少し大げさだが、神の主権を忘れるとき自分を不自由にする

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今日のみ言葉 ルカ17・1-6 「つまずきは避けられない。・・・一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます 』 と言ってあなたのところに来るなら許してやりなさい。・・・辛し種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に『抜け出して海に根を下ろせ』といっても言うことを聞くであろう。」 感想 「一日に七回も罪を犯した人が、その度に「ごめんなさい」と言ったら許してやりなさい」と言われて、弟子たちが、思わず叫んだ。「エ~!そんなこととてもできません!あ、いや信仰を増して下さい。そうすればできるでしょう」みたいな雰囲気だったに違いない。そんな弟子たちへの言葉が、「辛子だね一粒ほどの信仰があれば、・・・」しかし、弟子たちは更にビックリして、「桑の木が海に移る?!」とますます困惑したのではないかと思われるのだが。 無制限の赦しという場合、自分も神様から無制限に許されて今があることを思う必要がある。同時に、全てを可能にする神への信仰が問われる。無からの創造を思いながら、思うようにかないことに対しては「神の支配」に委ねる発想の転換こそが信者らしい。そしたら、肩の力が抜ける。そして、楽になって問題視している「その人」に「ま、いいか」という気持ちになった。神の支配、神の主権。今日の合い言葉。 良く見渡してチャンスをうかがうダイサギ

福音を人ごとのように聞くからモンダイが絶えないとは思うのだが

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今日のみ言葉 ルカ15・1-10 ・100匹の羊と見失った1匹の羊 感想 99匹の羊とは誰のことか。見失った1匹は誰のことか。そんな風に考えてはあまり意味がないように思う。私自身のこととして考える方がいいように思う。私は、そこそこ問題なく生きているイエスさまの羊の一人と考えていい。しかし、どうしても、見えていない自分がある。もっといい自分になれるはずだが、現状に満足しているところがあるからだ。「あ、ここにボクの問題があった!」と気がついたら、ボクだけでなく、「大きな喜びが天にある」。 しかし、そこが難しい。つまり、「ここが自分の問題点」と気づことはそれほど容易ではない。人に指摘されようものなら、なおさら認めたくないという習性が働くからやっかい。いずれにしても、それほど劇的な気づきでなくても、自分の問題点は何か、素直に振り返れる一日となればと思う。 カワウのみなさん

弟子の条件を突きつけられて一歩退いた群衆の一人が自分

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今日のみ言葉 ルカ14・25-33 弟子の条件 ①身内や自分の命を憎むこと ②自分の十字架を担ぐ ③どんな苦労もいとわない覚悟 ④自分の持ち物を全て捨てること 感想 ②を除くいずれの条件も、無理難題。これが正直な感想だ。③も、何とかなるかもしれないという淡い思いはある。①はもとの言葉も「憎む、嫌悪する」とあって強烈すぎる。ましてや、④に至ってはもうアウト。しかも、これが、ついて来た「大勢の群衆」に向けてなされたことになっている。みんな思わず「エッ!」とフリーズしたのではないか。 実際は、人々を甘い夢に酔わせる現世的 メシア待望論 を否定する意図があったのだと思う。「あなたが王となるときは、ウチの二人の息子をあなたの右と左に」と願う弟子の親が現れたりしたのだから (マタイ20・20-21参照)。 それはそうと、④は文字通りだと無理でも、それ以上に深刻なのが我(ガ)への固執。これを手放すことがいかに難しいか。第一、自分が何にこだわっているかもわかってくれないことが教会のゴタゴタの原因。たとえ分かっても、認めたくないという金縛り状態という悲劇は珍しくない。 そんな自分に出会えたら弟子になれるかも。 御領ケ池のカルガモ一家

あの招かれた人たちの中で、私の食事を味わうものは一人もいない!

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今日のみ言葉 ルカ14・15-24 「ある人が、盛大な宴会を催そうとして、…僕を送り、…「もう用意ができましたから、お出でください」と言わせた。すると、皆、次々に断った。…主人は怒って僕に言った。…「ご主人様、仰せの通りいたしましたが、まだ席があります」というと主人は言った。「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れてきて、この家を一杯にしてくれ。 あの招かれた人たちの中で、私の食事を味わうものは一人もいない 。 」 感想 教会離れの激しい日本の教会、というよりもわが指宿教会の姿が思われて気持ちは複雑。「誰でもいいから、無理やり引っ張ってきなさい」という命令の真意がいまいちつかめないからだ。指宿の人は誰でもいいから引っ張って来い!など、乱暴なことができるわけがないのに。第一、主人が神様のこととして、招待を断られたぐらいでキレる神様も度量がない。 とは言え、この話が、当時の指導者たちに向けられたものだとしたら、少しは分かるように思う。つまり、イエス様の宣教の対象はイスラエル人たち。しかし、中でも指導層の横柄さは目に余るものがあった。神から選ばれた者としての品性に欠け、聞く耳を持たない。「あの招かれた人たちの中で、私の食事を味わうものは一人もいない!」この最後の言葉に主の嘆きの深さが思われて胸が痛む。 信者は選ばれたもの。自分の信仰の度合いに関係なく、 主の 期待は大きい。今日は、そんな主の嘆きの深さを味わう日としたい。 福岡大神学院下の池

私たちの身内を始め既知の人々を偲びながら祈る日にしたい

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今日のみ言葉 ヨハネ6・37-40 「・・・私が天から降ってきたのは、自分の意思を行うためではなく、私をお遣わしになった方の御心を行うためである。私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えて下さった人を一人も失わないで終わりの日に復活させることである。・・・」 感想 「煉獄スルー」の話ですっかり安心したのに、今日の話は微妙。「私に与えて下さった人」と限定された言い方が気になる。それは、次にある「子を見て信じる者」、つまり、信者のことのよう。ということは、イエスさまにとっては、「信者ファースト」ということ?では、信者でない人はどうなるのか。 マタイ25・40には次のようにある。「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことになるのである。」いわゆる最後の審判の話で、いい人は右、そうでない人は左。これは右側の人への言葉。すると、信者でない人の最後は御父自らが面倒見てくださるということと理解できる。 「ま、そういうヤヤコシイ詮索は置くとして、とにかく召された人々のために祈ろう」ということが始まったのが14世紀らしい。明確にできないことはできないとして、せめて「御父がよき計らいをして下さるように祈ろう」というのが今日の日であれば、 先に召された私たちの身内を始め既知の人々を偲びながら祈る日にしたい。 十字架の向こうの縦縞の雲が印象的だった

あなたも諸聖人予備軍の一人。だから今日も心穏やかな一日を

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今日のみ言葉 マタイ5・1-12a 「…心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。…柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。…」 感想 諸聖人の大祝日。いわゆる、聖人として正式に登録されたわけではないが、先に召されて神のもとでとりなしの業を果している無名の聖人たちを祝う日。 子供のころ聞いた公教要理では、亡くなってまず行くのは煉獄。そこで清めを受けて天国に行ける。そうなると、自分のことで頭が一杯なので、「とりなしの業」どをころではないことになる。そういう意味で、そんなオシエと今日の祝日との間には齟齬ソゴがある?また、主と共に十字架にかけられた盗賊の一人は、「あなたは、今日、私と共に楽園にいる」(ルカ23・43)と確約をもらった。煉獄をスルーしたことになる。しかも、直接罪を告白したわけでもない。それに、放蕩息子の帰りを待つ父のたとえ話もある。 あ、今日はそんな神学論争をするつもりではない。つい、かねての疑問が再燃しただけで、個人的には、「煉獄スルー」の”イエス派”。だから、亡くなった身近な人々はみな諸聖人。で、自分も諸聖人予備軍の一人として、「柔和な人」をやって穏やかな一日にしたい。 ロザリオの聖母をバラの花びらで称える