私たちの身内を始め既知の人々を偲びながら祈る日にしたい

今日のみ言葉

ヨハネ6・37-40
「・・・私が天から降ってきたのは、自分の意思を行うためではなく、私をお遣わしになった方の御心を行うためである。私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えて下さった人を一人も失わないで終わりの日に復活させることである。・・・」

感想

「煉獄スルー」の話ですっかり安心したのに、今日の話は微妙。「私に与えて下さった人」と限定された言い方が気になる。それは、次にある「子を見て信じる者」、つまり、信者のことのよう。ということは、イエスさまにとっては、「信者ファースト」ということ?では、信者でない人はどうなるのか。

マタイ25・40には次のようにある。「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことになるのである。」いわゆる最後の審判の話で、いい人は右、そうでない人は左。これは右側の人への言葉。すると、信者でない人の最後は御父自らが面倒見てくださるということと理解できる。

「ま、そういうヤヤコシイ詮索は置くとして、とにかく召された人々のために祈ろう」ということが始まったのが14世紀らしい。明確にできないことはできないとして、せめて「御父がよき計らいをして下さるように祈ろう」というのが今日の日であれば、先に召された私たちの身内を始め既知の人々を偲びながら祈る日にしたい。
十字架の向こうの縦縞の雲が印象的だった

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