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8月, 2019の投稿を表示しています

突然現れて突然藪に消えた子猫の命も神の命のカタワレ

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今日のみ言葉 マタイ25・14-30 感想  天の国のたとえとして語られる今日のみ言葉は、タレントの語源ともなっているタラントンの話。5タラントンと2タラントン託された人はそれを倍にしたという。1タラントンの人は、失っては困るというので埋めて保存した。 1タラントンというのはとてつもなく大きな額だったらしい。 旅から戻った王は前の二人を褒めたが、1タラントンの人を厳しくとがめ外の闇に放り出すというむごい仕打ちをした。  どこに福音があるのか戸惑ってしまう。もっとも、これは当時の指導者たちを念頭に置いての話ということになっている。  それでも、ナントカ、今日の自分に問われていることは何かと考えたとき、1タラントンの人には同情しながらも、恐れで生きるのは健康的ではない。しかし、カトリック信者は沢山の罪について学びすぎた。そのせいで、恐れの信仰が身についた。人間皆罪人。そんな思想が蔓延した。  それは、神の命を分けてもらった人間(創世記2・7)を時間と共に、神に忖度しすぎて?、罪人にしてしまったということではないのか。むしろ、時間と共に、「人間は神の命を分けてもらったいい者」というメッセージこそ一貫して伝え続けたらよかったのにと思う。  ここまで書いてきて一つのことに気がついた。つまり、とてつもない額を預かった人が恐れたのは分かるとしても、その5倍もの額を預かった人のすごさは、恐れではなく、それをフル活用したことだ。  自分は足りないことに恐れがちだが、「神の命を分けてもらった者」ということは、5タラントンでも買えない命を預かっているということになる。「あ、これはすごい!」そんな自分をフル活用する。これもいい。まだ頭のレベルだが、少し前向きになれた。 草刈り中足下にやって来た子猫

洗礼者ヨハネの斬首、イエスの十字架での死の延長上に信者の許しがある

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今日のみ言葉 マルコ6・17-29 感想  今日は洗礼者ヨハネの殉教の記念日。ヘロデ王は自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことを洗礼者ヨハネにとがめられ、腹いせに逮捕、投獄していた。  今日はその洗礼者ヨハネが王によって斬首された日。理由は王の全くの気まぐれによるもの。ある日の宴会で、踊りで花を添えた義理の娘に褒美を上げたいと思った。母親にそそのかされた娘の願いは「ヨハネの首」。  権力者の気まぐれによる斬首。まさに犬死に。先駆者ヨハネとも言われるだけあって、十字架上での不条理な死の先駆けとなった。  ささやかな誤解や無理解に不機嫌になる狭量さを恥じるが、ヨハネの無念さは十字架上での主の無念さに通じ、その線上にキリスト者の赦しがあることを心に留めたい。 藤の根元から出現したキノコ。子供たちも大興奮  

イエスさまが嫌った偽善者。「ボクは違う!」と胸を張れない悲しさ

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今日のみ言葉 マタイ23・27-32 感想  律法学者やファリサイ派に対する厳しい攻撃は止まらない。白く塗った墓だの、先祖の悪事の仕上げをしたらどうかだの。よっぽど見かねたらしい。  人ごととして聞いている私たちは、自分のことではないと思っているからだ。もちろん、「自分は偽善者ではない!」と胸を張るほどの勇気はないが、イエスさまから、こんな風にあしざまに非難されるとは思っていない。言ってみれば、「密やかな偽善者」  そんな私たちがあこがれるのはやはりイエスさまの「真っ直ぐ」だ。父に真っ直ぐ、自分にも真っ直ぐ。そんな一日でありたいと思った。 教会横の真っ直ぐ伸びる温泉水路

キチンとしていることにも落とし穴がある。それが、こだわりだとしたら…

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今日のみ言葉 マタイ23・23-26 感想  律法学者やファリサイ派の人々はキチンとしている人たちだった。十分の一税はキチンと納めるし、身なりもキチンとしているし、きれい好きだった。  イエスさまは、そんな彼らを評価しないどころか、「不幸だ。何にも分かっちゃいない。 正義、慈悲、誠実さのかけらもない 」と切って捨てる。「強欲と放縦に満ちている」とも。  私たちは、これほどの非難を受けるほど「目が見えない」とは思っていない。一応自分の状態は分かっていると思っている。ただ、何かにこだわって生きているのも確かだが、それとて、非難されるほど異常なこととは思えない。  こだわりというのは、あっさり手放せないもの。あっさり手放せないほど、大事なものもあるとは思うが、マリア様の「あ、分かりました‐なれかし‐」は、究極の「あっさり」。信仰の原風景とすべきは”あっさり”。肝に銘じたいと思う。  今日は、聖モニカの記念日。息子アウグスチヌスが回心してカトリック信者になるように祈り続けて40年。聖なるこだわりの勝利。 トンボが湯気の立つ川面を行ったり来たり(要拡大)    

神殿に誓うのと、言い訳するのとでは基本的には誠実さに反するので✖

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今日のみ言葉 マタイ23・13-21 感想  神殿にかけて誓うのは無効だが、奉納物の黄金などにかけて誓うのは有効。祭壇そのものにかけての誓いは無効だが、祭壇に捧げられたものにかけて誓えば有効。  当時のユダヤ教の末期症状をイエスは激しく批判された。誓いの習慣のない私たちにとっても本末転倒だと分かる。そういって、冷笑したくもなるが、自分を正当化するために、あの手この手を弄したくなるのは洋の東西を問わず、時空を超えた人間の悲しさ。  「道が混んでいたもので遅くなりました」はダントツ多い?言い訳。信仰とは関係なさそうなこの言い訳こそ問題。信仰の基本は、ありのままを認めることだからだ。神の前に言い訳は無用。第一、言い訳は、人(状況)のせいにすることで、自分を正当化しようとすることなので誠実な姿とはいいがたい。  人間関係にしろ、神との関係にしろ基本は「言い訳をしない。」努力する価値はある。今日も誠実な一日にしたい。 野の花は踏まれてもきれいに咲く誠実の鑑  

「もっと偉大なことを見ることになる」とナタナエルに言われた真意は何だったのか

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今日のみ言葉 ヨハネ1・45-51 感想  「もっと偉大なことを見ることになる」とナタナエルに言われた真意は何だったのか。「預言者も書いているすごい人に会った。ナザレのイエスだ。」 フィリポからイエスのことを知らされたナタナエルの反応は「ナザレから?まさか!」。  「私はアンタを見たことがあるよ。いちじくの木の下にいただろう。」「えーっ!どうしてそれが・・・」絶句したナタナエルは思わず叫んだ。「あなたは神の子、イスラエルの王!」  「それくらいのことで驚くのは、まだ早い。もっと偉大なことを見ることになるよ。」  さて、その後、ナタナエルが 見ることになる 偉大なこととは何だったのか。復活のこと?そうかもしれない。  だが、 私たちにとって大切なことは、 そんな謎解きではなく、「 今日の 偉大なこととは何か」を問うこと。偉大なことと言えば、緊張するが、そうではなく、ヤコブが言っているように、行いの伴わない信仰は死んだ者にならないために大事なことは、信仰者らしく過ごすこと。喜び、希望、感謝の一日にしたい。平凡だが偉大なことだ。 賛歌を捧げる?ノビタキ

どんなことにしろ、試されたと分かると腹立たしいのだが、主は違う

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今日のみ言葉 マタイ22・34-40  ファリサイ派の人々は、イエスが、サドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」 感想  人を試すような質問は大変失礼。普通だと、怒られるし、目上には決してしない。律法学者はきっとイエスさまより年上だったに違いない。それはともかく、「掟とは神様の愛の心遣い」と教えられた。第一の掟は、信者なら大事にいしているが、問題は第二。人を愛することは、あまりにも自分に似ているのでヤヤコシイ。つい、「自分は自分」という壁を作ってしまう。  愛の業、と考えると具体的で、これまた大変。しかし、愛の掟が「心遣い」の問題とするなら、信者のない人々にとっても大事なこととして評価される。そういう誰もが持つ「心遣い」があっての業が愛の行為となる。人が嫌がることはしない心遣い。  ついでに脱線するが、「人にしてもらいたいと思うことは何でも…人にしなさい」(7・12) なれより、「自分が嫌なことは人にもするな」が無難な感じはする。  ともあれ、今日も、そんな心遣いのうちに過ごしたい。 風のない日は開聞岳を映すという鏡池

あなたも私も婚宴の席を満たすために送られる王の家来たち

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今日のみ言葉 マタイ22・1-14  天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。・・・しかし、人々はそれを無視して・・・。王は怒り、・・・家来たちに言った。「・・・見かけた者は誰でも婚宴に連れてきなさい。」・・・そこで家来たちは、通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めてきたので、婚宴は客で一杯になった。・・・婚宴の礼服を着ていない者が一人いた。・・・王は側近の者たちに言った。「・・・外の闇に放り出せ。・・・。」招かれる人は多いが選ばれる人すくない。 感想  相変わらず分かりにくい話だ。あらかじめ招かれた人々はユダヤ人のことで、焼き払った下りは70年のローマ軍によるエルサレム滅亡、通りで集められた人々は異邦人のことということになっているが、これは解釈。  最後の1行を心に留めたい。「招かれる人は多いが選ばれる人は少ない。」理屈抜きで分かるけれども、たとえ話の流れからすると、なんとなく、だまし討ちに遭った感じもする。教会の姿を見たら、確かにそうだとは思う。櫛の歯が抜けたように、教会離れは止まらない。残っている私たちは選ばれた者で、家来の役割を負わされているとは思う。だから、自分がふさわしいかどうかと言っている場合ではない。まずは、宴会を断っている同胞たちに呼びかけ祈る家来にならないといけない。 Are you ready?  

常識という人間社会のパスワードでは神様の門を開くことはできない

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今日のみ言葉 マタイ20・1-16  天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は一日につき一デナリオンの約束で労働者をぶどう園に送った。また、9時ごろ行ってみると、・・・「あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう。」・・・主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出ていき、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、・・・「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、「…最後に来た者から始めて、…賃金を払ってやりなさい」と言った。・・・最初に雇われた人たちが来て、・・・しかし、彼らも一デナリオンずつであった。・・・主人に不平を言った。・・・主人はその一人に答えた。「友よ、あなたに不当なことはしていない。・・・私は、この最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。・・・。」このように後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。 感想  昨日の福音の最後はこの逆。「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」神様とのおつきあいに常識を持ち込んではいけないのは分かるが、悩ましいところだ。突然、飛躍するようだが、この常識の最大の難敵が死刑廃止論ではないか。心情的にも受け入れにくいが、 根拠はやはり、この「後、先」のたとえ話にあるのではないか。  ともあれ、 果てしなく広がる大空のような御父の懐の広さを思う一日にしたい。 青空のもとでくつろぐノビタキ

ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい。それほど金持ちはダメ?

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今日のみ言葉 マタイ19・23-30 イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが天の国に入るのはらくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」でした知はこれを聞いて非常に驚き、「それではいったい誰が救われるのだろうか」と言った。イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、私たちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、私たちは何をいただけるのでしょうか。」イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。・・・私の名のために家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」 感想  ここで言っている「天の国」は、「天国」のことのようにも聞こえる。天の国=神の国の一貫性からして天国でなくてもいい。神の国=神様の夢の国、つまり、誰もが排除されない、誰もが愛されていると感じることができる人間の憧れの社会、と考えるのがいいと思う。  また、金持ちも、いわゆる「お金持ち」と限定しない方がいい。もっとも、貧しい国の人々にとって私たちはみんな金持ち。このことを理解するヒントは今日のアレルヤ唱。  ”アレルヤ、アレルヤ。イエス・キリストは富んでおられたのに貧しくなられた。あなたがたが キリストの貧しさによって富む ように。アレルヤ、アレルヤ。  おごらず、高ぶらず、自分に固執せず、おおらかで、マリア様の「はい」に倣う。今日もそうして生きていきたい。 水の流れに身を任せて  

自信を砕かれた青年が「悲しみながら立ち去った」のはなぜ?

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今日のみ言葉 マタイ19・16-22  一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんなよいことをすれよいのでしょうか。」イエスは言われた。「・・・もし、命を得たいのなら、掟を守りなさい。」男が「どの掟ですか」と尋ねるとイエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また隣人を自分のように敬いなさい。』」そこで、青年は言った。「そういうことは皆守ってきました。まだ、何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから私に従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。 感想  「永遠の命」と聞けばやはり至福の世界、天国を連想する。この青年もそんな思いだったらしい。当時の掟は、600余りに増えていたそうなので、掟と言われても、思わず、「どの掟ですか」と聞いたのはそのためだったと思われる。  イエス様の返事は、いわゆる、十の掟(十戒)の後半、前半三つは人の神に対する態度について。青年にとってはなじみ深いものだったので、「もっと難しいものかと思ったのにガクッ」となった。そのとき、「あーよかった!ありがとうございます。それなら、小さい頃から守ってきていました。また頑張ります」ぐらいでおけば可愛かった。青年の返事に謙虚さを感じなかったイエス様はダメ出しをされた。  それにしても、神様に対する人間の在り方を省かれたのは何故か。分かるような気がする。信仰、信仰と言いながら家庭内はもちろん、お隣ご近所とうまくいかないとすればその信仰は明らかにおかしい。青年が余計な質問をしなければこれぐらいの忠告で済んだはず。  ともあれ、今日も、身近な人々といい関係の中で生きていきたい。 ワイワイガヤガヤ、ムクドリたちの井戸端会議

私たちは神様の子どもでも、大人びていてあんまり可愛くない?

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今日のみ言葉 マタイ19・13-5  そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子どもたちを連れてきた。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。「子どもたちを来させなさい。私のところに来るのを妨げてはならない。天の国は、このような者たちのものである。」そして、子どもたちに手を置いてからそこを立ち去られた。 感想  幼稚園の子どもたち、とくに2歳の子どもたちは可愛い。しかし、この時期の子どもたちは、人生の中で最も速いスピードで成長しているという。五感をフル回転させて周りのことを吸収する。おかげで、生きるために必要な情報の70%を手にするのだという。この時期を敏感期と呼ぶ。そのピークは3歳と言われる。  「ママがいい」とむずかっていた子も、「もうすぐ・・ママが・・くるの」としゃくり上げていた子も、「えんちょうしぇんしぇい、もうおうちかえるの?」と大人びた挨拶ができるようになった。   五感をフル回転させて神様からのメッセージを受け取ろうとする、 神様の子どもらしい一日でいたい。 ツバメの食前の祈りは必死に叫ぶこと

「天の国のために結婚しない者もいる」を巡って

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今日のみ言葉 マタイ19・3-12   ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば,夫が離縁することは律法にかなったいるでしょうか」と言った。・・・弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら,妻を迎えない方がましです」と言った。イエスは言われた。「誰もがこのこ言葉を受け入れるのはなく、望まれたものだけである。・・・天の国のために結婚しない者もいる。それを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」 感想  今日のみ言葉は、結婚式の時に朗読されたりするだけで、普段の私たちにとっては、なんとも取り付く島もないところ。それでも、「 天の国のために結婚しない者もいる」箇所の「天の国のために」はカギとなる言葉だ。結婚するしないの問題を超えて、信者の生き方そのものが目指しているのは「天の国のため」。「天の国」という言葉は、マタイの好きな言い方で、マタイだけが使っている。33回も。  それはともかくとして、天の国とは私たちが言う天国のことではない。そういう来世のことではなく、神の国のこと。ちなみにルカは天の国と言わずに神の国という。34回も。  ここも、聖書の勉強ではないので先を急ごう。とにかく、神の国の最大の特徴はおおらかさ、おだやかさ、周りの人に安心感を与えること、などなど。数え上げるときりがないが、少なくとも、「私が、私が」的生き方が平和を壊す元凶であることをしっかりわきまえた今日でありたい。 被昇天の聖母

ケチをつけたくなるみ言葉をどう黙想したらいいものか。イエスさまに直訴?

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今日のみ言葉 マタイ18・15-20  「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って2人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ,他に1人か2人一緒に連れて行きなさい。全てのことが,2人または3人によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。  はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなた方が地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなた方のうち2人が地上で心を一つにして求めるなら、私の天の父はそれを叶えて下さる。2人または3人がわしの名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」 感想  正直、悩ましいみ言葉だ。教会内のもめ事は多い。しかし、表面化しないまでも、特に、人間関係では、暗黙のうちに仲良しグループと敬遠される人たちとに分けられているのは珍しくない。主任司祭がガンになる場合も多いが、そのときは司教に直訴がいくので何とかなる。しかし、今朝のみ言葉のような事例は体験がないのでピンとこない。それにしても、教会の言うことも聞かないとしたら、「その人を異邦人か徴税人のように見なしなさい」というのはどういう意味か。誰も排除しないのが教会なのに、「排除しなさい」という文脈は疑問。  「どんな願い事であれ、・・・天の父がかなえて下さる。」しかし、現実には「かなえてもらってない」と感じることの方が多い。そして、「神様の思いは私たちの思いと違うから・・・」と言い訳することになる。また、「忍耐を学ぶように、と言うことだったかも」と苦しいあきらめを余儀なくされることも多い。イエスさまの真意が知りたい。  ただ、最後のみ言葉は慰めに満ちている。「 2人または3人がわしの名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」ある意味、これだけで十分なのに。 私もいるヨ(草の陰)

一人も滅びることはない。御父が心にかけてくださっておられるから。

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今日のみ言葉 マタイ⒙1-5,10,12-14   そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったい誰が、天の国で一番偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの中に立たせて言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が天の国で一番偉いのだ。私の名のためにこのような一人の子どもをを受け入れる者は、私を受け入れるのである。」  これらの小さなものを一人でも軽んじないように気をつけなさい。・・・これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなた方の天の父の御心ではない。 感想  23名の甥や姪、その子供たちの回心のために祈ってはいるが、目に見えた効果?は見えない。あ、いや、二十三分の二にあたる一人の甥は嫁さんと二人の子供を、一人の姪は、なんと旦那と二人の子どもを洗礼に導いた。大成功と言える。しかし、あとの21人は、みんないい子ばかりなのだが、信仰があるのないのかすら判然としないほどだ。  そんな現実にため息が出るときもあるが、今日の最後のみ言葉には心底慰められる。彼らが、一人も滅びることはない。なぜなら、御父が心にかけてくださっておられるから。幼子のように御父に寄り添う日を祈り続けたいと思う。 寄り添って開花  

人の始まりは100%受け身。今日の日もいただいたもの。

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今日のみ言葉 マタイ17・22-27 イエスと弟子たちが、ガリラヤに集まったとき、イエスは言われた。「人の子は人々の手に引き渡されてようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。」弟子たちは非常に悲しんだ。・・・。 感想  引き渡され、殺され、復活する。三つの動詞はいずれも受け身形だという。そういえば、英語でも、私はどこどこで生まれたと言うときも受け身形を使う。直訳すれば、生まれさせられたとなる。確かに人間の誕生に本人の自由意志はない。だから、人生は本来全くの受け身で始まった。  自分の始まりだけでなく、今日という日も頂きもの。だから 、 様々な出来事を、意に沿わないことも含めて、 せめて 今日は、 頂きものとして感謝できたらいいのだが。 場所を選ばずどこにでも咲くタカサゴユリ

カルガモの親子の間にもこだわりが。それともお父さんは監視役カモ

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今日のみ言葉 ヨハネ12・24-26 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命にいたる。私に仕えようとする者は私に従え。そうすれば、私のいるところに私に仕える者もいることになる。私に仕える者がいれば、父はその人を大切にして下さる。 感想  麦が死ぬというのは殻を破って芽を出す備えをするという意味。それができない麦は実を結ばないだけでなく死んでしまう。一粒のままで残るとすれば、化石でしかない。いずれにして、実を結ぶためにはからを破るという死ぬ体験が必須。  信者も同じ。だから信者の敵は自分の中のかたくなさ。こだわり=習慣、常識、知識、経験・・・つまり自分を不自由にし、人をも不自由にするもの。もちろん、自分も周りも自由に明るくするものもあるが。しかし、こだわりになっていないか。それに気づくのは容易ではない。せめて、今日一日自分のこだわりが何か捜してみたい。 お父さんはどうしても中には入れない。こだわり?

名ばかりの信者をやるときは多いが、それでも今日を与えてもらった

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今日のみ言葉 マタイ16・24-28 「私についてきたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者はそれを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても自分の命を失ったら、何の得があろうか。・・・。」 感想  信者というのは、誰でも主に従っていきたいと思っている。だから、それぞれの十字架をに直面したら、主の十字架を思いながら担いでいこうとする。  問題は、次だ。つまり、「 自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」ことに気がつかないばかりか、「自分にこだわり譲歩しようとしないことが、実は主に背いていること」に気がつかないこと。命を失うとは信者を止めるということ。いや、これは言い過ぎ。信者の心を失うといった方がいい。この状態の蔓延が問題。  今日は、そんな自分の現実に直面して信者の心を取り戻したい。 しっかり目を開け、警戒を怠らない

自分の言葉で自分の信仰を語る。自分の言葉探しは自分探し

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今日のみ言葉 マタイ16・13-23 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに,「人々は人のこのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなた方は私を何者だというのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、行ける神の子です」と答えた。するとイエスはお答えになった。シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。・・・」 感想  「あなた方は自分の信仰を自分の言葉で語りなさい。」神学4年の卒業前、協議学の神父さんが言った言葉が蘇った。「例えば、『ミサと何ですか』と聞かれたら、『最後の晩餐の記念です』と言うのは公教要理。あなたの言葉ではない。」  師の教えに忠実に従おうとしているうちに気がついた。自分の言葉探しは自分探し。76才になった今も終わらない自分探し。 獲物を探すモズ

イエス様の不可解な言動には戸惑うがそれでも嫌にならないワケ

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今日のみ言葉 マタイ15・21-28 イエスは、チルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えににならなかった。そこで、弟子たちが近寄ってきて願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついてきますので。」イエスは、「私はイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来てイエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです。」そこでイエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように。」その時、娘の病気は癒された。 感想  どうせなら、こんな回りくどい問答をしないで、さっさと治してあげたらいいのに、と思う。よくよく考えてのこととは思うが、ここでは、婦人の態度に注目したい。娘を助けたい一心と言えば、それまでだが、彼女の一途さは母性本能によるもではあるが、神の子として命の源につながっていたいといういわば、神の子の本能によると言える。  信者は洗礼の恵みを受けた特別な神の子。では、洗礼を受けた神の子である信者の本能とは何か。子であれば親につながっていたいと思うのは当然だから、神の子が神につながっていたいと思うのも当然だが、あの異教徒の婦人ほどの一途さがないことが悲しい。で、今日の課題は、神の子の本能を磨く? 何十年たっても道は消えていなかった

人は目に見える物を残したいと思うが、「これに聞け」という天の声

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今日のみ言葉 ルカ9‣28b-36 イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、福は真っ白に輝いた。・・・そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、私たちがここにいるのは素晴らしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、もう一つはエリヤのためです。・・・すると、「これは私の子、選ばれた者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえてきた。・・・。 感想  とっさに出たペトロの提案。記念碑を建てたいと思う気持ちは時空を超えて共通の心理らしい。しかし、雲の中から神が言われた。「 これは私の子、選ばれた者。これに聞け」。残念ながら、ペトロの提案は却下。  弟子たるもの師に聞くのが鉄則。しかし、「自分」に聞くことがなんと多いことか。信仰の根幹をなす「師に聞く」ことへの本気さが求められている。 信者は神様の手の中で揺られて幸せ

「しかない」と悲観的な弟子たちにイエスはパンの増加で答えられた

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今日のみ言葉 マタイ14/13-21 イエスは、洗礼者ヨハネが死んだことを聞くと、船に乗ってそこを去り、一人人里 離れたところに退かれた。 しかし群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人を癒された。夕暮れに名ttったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れたところで、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」・・・。 感想  「これだけしかない」というときの表情は明らかに曇り。周りの人も思わずため息をつく。しかし、「これだけならある」というなら、「じゃ、あるだけでやってみよう」という気になる。もちろん、これほど明瞭になるわけではないが、前者は「ない」ことが強調され、後者は「ある」ことが強調されている。  信者なら常に後者を心掛けるべきことは今朝のみ言葉から明らか。もちろん、死活問題にかかわる重大なこともあるのでこんな風に言い切るのは問題だが。そうではなくて、日常生活の中で何気なく口にするこの失望の言葉が、私たちをいつの間にか「常識的信者」にしてしまうかもしれないことを意識したいと思うワケ。 一本だけ?まだまだ!やったー!

新約の時代に生きる信者にとっては毎日がヨベルの日

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今日のみことば レビ記25・8-17 主はシナイ山でモーセに仰せになった。「あなたは安息の年を七回、すなわち七年を七度数えなさい。七を七倍した年は49年である。その年の第七の月の十日の贖罪日に、お羊の角笛を吹き鳴らこの五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。・・・。」 感想  50年目に全てをチャラにする。そして、ゼロからやり直す。神の民としての生き方をたえず刷新してきたイスラエルの民の、いわば知恵がヨベルの年。今日では、「大聖年」として盛大に祝われるが、私たちキリスト信者にとっては、毎日が「ヨベルの日」。新しい一日を与えてもらったということは、毎日「ゼロからやり直す」という呼びかけ。  今日も、新たな復活の始まりの日が与えられたことに感謝しながら歩みたい。 今日も日が昇る

驚きが目の前の出来事に対する不信仰の表れだとしたら

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今日のみ言葉 マタイ13‣54-58「イエスは故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。『この人は、このような知恵と奇跡をおこなう力をどこから得たのだろう。・・・』人々はイエスに躓いた。イエスは・・・人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。 感想 「えっ!?まさか!」と驚くことは珍しくない。今朝のエピソードは、驚きと不信仰が紙一重であることを教えているように思う。「まさか!」と驚くことは自然な反応だから、それはそれでいい。しかし、「そんなバカな」と続けたとしたら、安易な「判断、決めつけ」をしたことになる。ナザレの人々はこれをやった。イエス様は彼らの不信仰を嘆かれた。救い主との出会いを逃してしまった。大いなる損失だ。  想定外のことに対する驚きという反応は、下手をすれば、人間関係をも壊す可能性がある。驚き、疑い。しかし、決めつけない。肝に銘じたいと思う。 昨夜の花火大会(お泊り保育)

どんな時でも沈着冷静、なおかつ元気が出るような言葉を口にできる力が欲しい

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今日のみ言葉 マタイ13‣47-53「天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げおろされ、いろいろな魚を集める。網が一杯になる岸とに引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。・・・『あなたがたは、これらのことがみな分かったか。』弟子たちは『分かりました』と言った。そこでイエスは言われた。『だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。』」 出エジプト記40‣16「モーセは主が命じられたとおりにすべてを行った。」 感想  弟子たちが学者と呼ばれた。無学な彼らへのからかい?”学者“は”律法学者”と同じだというから嫌味?そうではなく、受難の時、保身のために主を置いて逃げ出すことになるのだからそうならないようにという思いを込めた「激励」ではないのか。それも裏切られるのだが。そこに主の偉大さがある。どんな状況でも肯定的な言葉をかける主に倣いたいと思う。  ともあれ、「 主が命じられたとおりにすべてを行った」と言える一日になったらいいなあ。葉 は虫食いでも 純白の花を咲かさせる野の花のように。 奄美の山道で(名称不詳)