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「生ける神の神殿」である私たちにイエスが渋い顔をされるのはいつ?

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今日のみ言葉 ルカ19・45-48 「イエスは神殿の境内に入り、そこで商売していた人々を追い出し始めて彼らに言われた。『私の家は祈りの家でなければならない』…」 感想 いわゆる神殿清めの話。マルコのような大立ち回り(マルコ11・15)はないが、「私たちは生ける神の神殿」(2コリント6・16)とパウロが言うように、今日の箇所は、信者である私たちのこととして理解したい。とはいっても、「あなたたちは強盗の巣にした」とは言われないとしても、しばしば渋い顔をされることがあるのではないか。
素直にハイが言えない、簡単に自分の非を認めようとしない、人の良さを評価できない、すぐにケチをつけたがる、などなど。信者の生き方を、生ける神の神殿を汚していることになる。そうではなく、良さはよさとして受容できる自分。おおらかな心で共感できる自分。心穏やかに違いを受け入れることができる自分。そんな一日にしたい。

もしこの日に、おまえも平和への道をわきまえていたなら・・・

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今日のみ言葉 ルカ19・41-44 「・・・イエスはその都のために泣いて言われた。『もし、この日に、おまえも平和への道をわきまえていたなら・・・。』しかし今は、それがおまえには見えない。・・・。」 感想 平和への道は心穏やかに生きる道。そんな風に理解するなら、泰然自若裏切りに会おうと、ゲッセマネの園で逮捕されようとじたばたしない。何故それができたのか。イエスさまには全てお見通し。全ては御父の見ての中でなされることだから、岡神父さんのように、何でも「頂きます!」100%委ねて生きることができた。それが私たちの「主」。
そんな主に倣って生きようとするとき、意に沿わないことに対しても、気の合わない人に対しても、心穏やかに生きることができそう。できそう、と人ごとなのは、頭で描いた青写真だから。いずれにしても、それが身近な人々との毎日の平和への道。そう念じながら、今日も主に倣う日としたい。で、今日の合い言葉は「頂きます!」

今日もあなたの1ムナ(あなたらしさ)が光る日となるように

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今日のみ言葉 ルカ19・11-27 感想 ムナのたとえ。1ムナは約6000円。当時の政治情勢を反映しているらしいが、あまりピンとこない。マタイにも似たような話があって、預かったお金を地中に保管して活用しなかった僕が叱られる点は共通している。ただマタイの場合は、お金がタレントになっていて、日本語にもなっているので分かりやすい。いずれの場合も、期待に応えなかったという点では同じ。
この視点に立つと、信者も期待されている点では、お金を預かった僕と立場は同じ。しかし、僕たちのように清算を求められたことがないので、期待されていると言われても、やはり、他人事の感は免れない。清算を赦しの秘跡とすることもできると思うが、それとて、自分の場合も一年一回か二回では心もとない。
しかし、信者にとって、「清算はいつなされるか」が問題ではなく、毎日の生きる姿勢こそが問題。自分が預かったものを「自分らしさ」と考えるならそれをいかに発揮できるかが問われている。それを明確にするのも容易ではないが、もっと、柔らかく言えば、「自分なりに、自分の味を出しながら信者らしく生きる」ことが大事ということになる。今日もあなたの1ムナが光る日となるように。 七五三で捧げた花


日本人の不得意な?「ことば」こそ、実は、日本人信者にはむしろ有利となりうる

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今日のみ言葉 ルカ18・35-43 「…『何をしてほしいのか』「目が見えるようになりたいのです。」…」 感想 「日本人は言葉の民ではない」とつくづく思う。お医者さんは別だと思うが、全盲の人が、「憐れんでください」といってそばに連れてこられた時、日本人なら、「どうしてほしいの?」と聞くことはないと思う。「ああ、かわいそうに。目が見えるようになりたいのだね」と察してあげるはずだ。
そうはいっても、「はじめに言葉があった」(ヨハネ1・1)のだから、み言葉そのものの主からすれば自然なことではあるが。実は、ここが、問題。日本の文化とは対極にあるように思うからだ。言葉と思いやり。しかし、確かめるためには言葉が必要。だが、日本人はそれほど神経質ではない。だから、”小さな親切大きなお世話”にもなったりするのだが、それはそれとして、「人がいいから」だったり「良かれと思ってしたのだから」ということで終わる。
しかし、言葉は”寸鉄人を刺す”の通り、人を傷つけて取り返しのつかない事態に発展することもある。そんな危うい感じのする”ことば”が信者にとっては”いのちのことば”。実は、日本人であることの利点は、「思いやって生み出される言葉」こそが”いのちのことば”となって人々の心に届く。
「思いやりの後で生み出される言葉。」日本人信者の強みではないか、と気がついた。


夜明けは近い!夜の闇に響く預言者たちの声を聞けた知恵ある者の言葉

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今日のみ言葉 知恵の書18・14-16、19・6-9 「沈黙の静けさが全てを包み、夜が速やかな歩めで半ばに達したとき、あなたの全能の言葉は天の王座から、情け容赦ない強者のように今野滅びの地に下った。・・・紅海には妨げるもののない道ができ、逆巻く波からは草の生えている平野が出現した。・・・」 感想 知恵の書は、紀元前80年代に書かれたと言われる。ローマの支配下にあってメシア待望論が人々に希望をもたらしていた時代と思われる。そんな人々の希望が単なる妄想ではないことを裏付けるかのように、出エジプトの記憶を呼び覚ましている感じのする箇所だ。また、バビロン捕囚を体験した先祖たちにも思いをはせているのかもしれない。
様々な苦難の後にやってくる神様の救いの業に信頼を置くように促しているようにも思う。そして、そのメッセージは現代の私たちにも、いわば有効。なぜなら、私たちは、知恵の書の時代の人々が知らない新しい出エジプトである主の死と復活を知っているからだ。いや、信じているからだ。今日もそんな信仰を証しする希望の人であるように。



神を信じないのは作品を前にして作者をしらない人のよう。

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今日のみ言葉 知恵の書13・1-9 「・・・宇宙の働きを知り、それを見極めるほどの力があるなら、何故それらを支配する主をもっと早く見いだせなかったのか。」 感想 知恵の書は紀元前2世紀頃、エジプトのアレクサンドリアで書かれたという。今日の書き出しがいい。「神を知らない人々はみな生来むなしい。彼らは目に見える良いものを通して、存在そのものである方を知ることができず、作品を前にしても作者を知るに至らなかった。」まさに知恵ある人々の洞察は素晴らしい。「私たちは神の作品」(エフェソ2・10)というパウロもこの個所にヒントを得たに違いない。

絵画にしても、「すばらしい!誰が描いたの?」とまず作者を知りたくなる。しかし、自然界は、あまりにもスケールが大きく動的なので、「作者は?」と聞くのも忘れるほどについ見とれてしまう。当時も今も、「作品を前にしても作者を知るに至らな」いひとびとがほとんどだ。

「私という作品」を誇る必要はないと思うが、それなりに評価できないなら、本当の信者とは言えない。今日は「神様の作品である自分」にどんないい言葉をかけようか。

今日は、「神の国はあなた方の間にある」ので人間関係を見直す日

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今日のみ言葉 ルカ17・20-25 神の国はあなた方の間にある 感想 「あんたが言うその神の国とやらはいつくるんかね。」聞く耳だけでなく見る目も持たないファリサイ人たちの意地悪な表情が浮かぶようなシーンだ。
神の国は、神の支配ということなので、奇跡はまさにその印だが、ファリサイ人たちにはそう思えない。今日の後半部分は分かりずらいが、全体のカギとなる言葉は「神の国はあなた方の間にある。」
人々に寄り添い、身をもって神の愛を説かれる姿こそ「神の支配。」”支配”という言葉は堅いが、分かりやすくいえば、雰囲気。口ではいいことを言っても、その人の醸す雰囲気が、上から目線では誰も聞こうとはしない。第一、人々の心には届かない。頭の体操で終わる。神の国は、心と心の響き合い。
今日も身近な人々との間で心地いい音色が響き合う一日となるように。