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信仰生活は連想ゲーム感覚で腕を上げることできる

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今日のみ言葉 マルコ3.22-30 「・・・人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜するものは永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。・・・。」 感想 「聖霊を冒涜する」というのは、イエス様のことを冒涜するという意味らしいが、私たちには経験のないことなのでどう理解したらいいか困る。ただ、聖霊、息吹き、空気は同じ言葉が使われているらしい。そうすると、命の息を吹きかけられて人は生きる者となった(創2‣7)とあるので、私たちも神の息吹きを受けて生きた信仰者になる。
自分にこだわるひと、人の言うことに耳を貸そうとしない人は要注意ということになる。つまり、気ままに吹く風のように、聖霊はつかみどころがないような動きをするから、自分にこだわっていたら聖霊の働きを取り逃す可能性が高い。すると、信仰者として空回りすることになる。信仰生活とは、連想ゲームみたいなものなので、今日も、心の耳と心の目をしっかり開き、信仰の嗅覚を敏感にしていたい。

洗礼を受けて信者になった人は特別の意味で神の子と呼ばれ新しい言葉を話す

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聖パウロの回心 祝日
今日のみ言葉 マルコ16.15-18 「全世界に行って、すべての造られたものに福音を述べ伝えなさい。・・・彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」 感想 当時の弟子たちは、書かれてあるように、蛇をつかんだり毒を飲んだりしたかどうか分からないが、少なくとも病人を癒やしたりという奇跡を行った。同じ福音宣教に派遣されている私たちにはまねのできないことなのでうらやましい限りだ。
しかし、サウロが回心してこれまでと違う人間になって、つまり、迫害者から宣教者に変身して、これまでと違う新しい言葉を語り出したように、私たちも洗礼によって新しい人になったのだから、新しい言葉を語るようになった。それでも、パウロと違うのは、まだ古い自分を脱ぎ捨てていないこと。これも仕方のないことだが、新しい言葉は、福音の心から生まれるので、自分の言葉、立ち振る舞い、人との関わりは福音の心にかなっているか常に問われていることを忘れてはならない。
今日も、古い自分を身にまといながら、それでも!新しい福音の心を生きていけますように。

イエスは、これと思う人々を呼び寄せ、ご自分の側に置かれた

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聖フランシスコ・サレジオ司教教会博士 記念日
今日のみ言葉 マルコ3.13-19 「イエスが、山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らは側に集まってきた。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分の側に置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。・・・。」 感想 今日の箇所は、いわば、「イエス親衛隊」の創設を記していると言える。いつもイエスの側にいて、行動を共にする親衛隊。イエスが親しく語ると耳を傾け、うなづき、そのように生きようとする忠実な親衛隊。宣教するイエスの心の支えとなる親衛隊。もちろん、イエスの心の支えは御父であるが、こうして、教会の原型が造られた。そういう意味で、教会とは、常にイエスの側にいる存在。志を一つにして歩む親衛隊。私たちもそのメンバーの一人。イエスの夢を共有する忠実な親衛隊。少し勇ましいが、今日もそんな気概のうちに歩みたい。

新しい葡萄酒は新しい革袋に。そうでないと葡萄酒も革袋もダメになる

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今日のみ言葉 マルコ2.18-22 「・・・誰も織たての布から布切れを、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また誰も、新しい葡萄酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、葡萄酒は革袋を破り、葡萄酒も革袋もだめになる。新しい葡萄酒は新しい革袋に入れるものだ。」 感想 コウタロウ君は2歳になったばかり。さくら組さんの新しい仲間。当初は、何時間も泣いてばかり。今でも時折泣くことがある。あんな小さな子でも適応していく力はスゴイ。人が新しい環境に慣れていくときの原点を見るようで感動的ですらある。
新しい葡萄酒は新らしい革袋に。私たちの信仰の姿は、新しい葡萄酒を入れてもらったものの、あちこちから漏れ出していることに気がつかないでいるかのよう。しかも、どこら漏れているのかも分からないのが悔しい。
気づくためのヒントがあるとすれば、人から注意されたとき、素直に非を認めることは大原則かと思う。言い訳は最大のテキ。ダカラ、注意されることがなければ希望もない。
イエス様にとって、御父の意思は新しい葡萄酒。容易ではなかったが、「あなたに委ねます」と言われたとき、新しい命への道を開かれたことを忘れてはならない。こだわりからの解放こそ新しい葡萄酒にふさわしい。今日も新しい革袋への一歩となるように。

イエスとファリサイ派や律法学者たちとの違いは一言で言えば自由人と不自由人

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今日のみ言葉 マルコ2・13-17 「・・・『どうして彼は、徴税人や罪びとと一緒に食事をするのか』の…『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。…』・・・」 感想 イエスの自由さと指導層の頑迷さが最後までぶつかることで話は進む。指導層の悲劇は、自分たちも罪びとの一人で、つまり病人の一人であることに気づこうとしないところだ。もっと言えば、自分たちの正義が単なるこだわりに過ぎないことを認めないがゆえに真実が見えてこない。同じ現象は私たちにも起こっていることに気づきたい。罪びとという自覚は誰にもあるが、譲れないこだわり、自分流を貫くというこだわり、常識というこだわりもある。こうしたこだわりから完全に解き放たれているのがイエス。
こうしたこだわりは、別の言葉で言えばクセ。クセは第二の本姓と言われるほど身についたものなので改めるのは容易ではない。しかし、「人の邪魔になっている」と知らされても改めようとしないならそれこそが罪。そのことに気づいて新たになろうとするときまともな信者への道が開ける。心したい。

律法学者とは主義主張にこだわる人たちで、結局ただの人をやっているだけ

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聖アントニオ修道院長 記念日
今日のみ言葉 マルコ2.1-12
「4人の男が中風の人を運んできた。『子よあなたの罪は許される』と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、『この人は何故こういうことを口にするのか。神を冒涜している。神尾1人の他に、一体誰が、罪を許すことができるだろうか。』人々はみな驚き、『このようなことは、一まで見たことがない』と言って、神を賛美した。
感想 指導者たちと庶民の反応の違いに注目したい。知的に考える人と、素直に驚き「神を賛美する」人とは天と地の差がある。天は主とで会うために主の道を歩むことで、地は主を認めようとしない自分にこだわる姿。その違いは、人生の質そのものの違いを生じる。今日もすべてに心を開き、こだわりから解放されて主への道を歩むものでありたい。

癒されてきれいな体になった喜びは分かるが、イエスの活動の邪魔をした

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今日のみ言葉 マルコ1.40-45 「さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、『御心ならば、私を清くすることがおできになります』と言った。イエスが深く憐れんで、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。『誰にも話さないように気をつけなさい。…』・・・しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それでイエスはもはや公然と町に入ることができず、・・・。」
感想 この人の喜びの大きさは想像に余りある。神学生の頃、敬愛園で会った患者さんのすさまじかったこと。初めて見る病のひどさにショックを受けたものだ。もっとも今では、完治しているが。今朝の人は、皮膚も顔も元通りに戻った我が身を見て驚喜したに違いない。イエス様の注意など耳に入らないほどだったもようだ。おかげで、イエス様の宣教活動に支障をきたすこととなった。
体はきれいになったが、イエス様とつながったかは不明。「祭司に見せなさい。祭司の証明によってはじめて社会復帰も可能となるから」というイエス様の心遣いも無駄になった?これは悲劇。もっとも、後で祭司に見せに行くことになったとは思うが。ともあれ、この人も、イエス様の宣教活動を邪魔することになったことに気付くべきだったがそれどころではなかったのだから仕方ない。
私たちの場合も、心したいところだ。誰かの迷惑になっていると気がつかない限り自分の行為や言葉を改めることは難しい。ネットの書き込みで人権を侵害された女性が、誹謗中傷を繰り返す投稿者を3年余りもかけてついに特定した。法律の制定に向けて運動を起こしていると、今朝のニュースで知った。悪意は排除されなければならない。
小教区内の清めも必要だと思うことはある。それが何かは当事者も分からないのが悩ましい。「御心ならば、私を清くすることがおできになります。」