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「割り切れるものしか処理できない頭」の信仰に救う力はない

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12月27日(金)聖ヨハネ使徒福音記者 今日のみ言葉 1ヨハネ1.1-4 「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。・・・」 感想 当時、キリスト信者たちを惑わしたものがグノーシスという異端。つまり、人間イエスを否定した。いわゆる歴史上のイエスを認めない。十字架にかかったイエスを認めない異端。霊肉二元論。ヨハネは、そんな異端を意識しながら、この書き出しを記したという。 私たちには、「人間イエス」でないとやはり困る。親しさも沸かない。何故、人間イエスを否定したのか理解に苦しむが、グノーシスが知識と言う意味だと知れば分かるような気もする。頭で、考えても分かることではないからだ。つまり、彼らは頭の信仰だった。理屈を言いたくなったら気をつけよう。 幼子のようにならないなら・・・

教会は細っても、「あなたの王座は固く据えられる」という約束は不変

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12月24日 今日のみ言葉 サムエル記下7・1-5、8b-12、14a、16 「…あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。…あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに硬く据えられる。」 感想 ナタンを通して語られたダビデに対する預言。「その王国が揺らぐことはない」と保証されたはずのダビデの王国は、二代目ソロモンの時に南北に分裂し、やがて、南のユダ王国も滅ぼされた。どういうことなんだと思うが、「救い主は、ダビデの子孫から生まれる」ということらしい。そういう意味では、「あなたの王座は硬く据えられる」というのはその通り。 そういう風に理解すると、細る一方の鹿児島教区、いや日本の教会を見るにつけ、「どうなることか」とため息が出そうだが、案ずることはない。たとえ、細っても、高齢化が果てしなく進んだとしても「消え去ることはない!」と希望が持てる。 そんな希望の中で主の降誕を迎えることができるのが嬉しい。 祝福の前

彼は精錬するもの、銀を清める者として座し、彼らの汚れを取り除く

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12月23日 今日のみ言葉 マラキ3・1-4 23-24 感想 マラキは”私の使者”という意味で、固有名詞ではないらしい。いずれにしても、前5世紀ごろの預言者。「…見よ、私は大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は、 父の心を子に、子の心を父に向かけさせる。 私が来て、破滅をもってこの地を打つことがないように」(23-24)。下線部はまさに「そっ啄同時」。(そっは口偏に卒で、ヒナが生まれるとき殻の中で鳴くこと)。啄は親鳥が外から突っつくこと。これが同時になされてヒナが誕生する。 父の心と子の心が一つになることが信仰生活の目的。昨日の三つのなれかしに加えて私たちのなれかし(ミサ説教)で私たちの間に御子が誕生する。実は、この私たちのなれかしこそが私たちの清めの時。つまり、自分の中のこだわりを離れて神の御意向に沿う生き方を選ぼうとすること-なれかし-が、神との 「そっ啄同時」であり、 私たちの清め。そんな日々でありたい。 つく人、こねる人の呼吸が大事

マリアの挨拶をエリザベトが聞いたとき、その胎内の子が躍った

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12月21日 あと4日 今日のみ言葉 ルカ1.39-45 「…私の主のお母さまが私のところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声を私が耳にしたとき、胎内の子は喜んで踊りました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」 感想 エリサベトの場合、「 私の主のお母さまが私のところに来てくださるとは、どういうわけでしょう」と驚きの声を上げた。 日本的には、「もったない、恐れ多い、ありがたい」ということになると思われる。そして、「胎内の子は喜んで踊った」。「踊った」と言えば、シマのロクチョウが思われた。嬉しくなったら踊りたくなるのは人間の共通の習性かと思われる。しかし、ミサになると、救い主の誕生を祝うクリスマスとなると最高の喜びなので、会衆が総立ちになって喜び踊ってもいいのではないかと思うが、日本ではそういうわけにはいかない。ミサはやり厳粛なのが好まれる。 それにしても、日本人信者の喜びの表現は控えめ。自分自身、聖霊刷新の人たちが手踊りするのについて行けなのはどうしてかと思う。自分自身のこだわりだとは思うが、あまり深刻に悩んだことはない。 ともあれ、日本人は、と言っていいと思うが、褒めるのが苦手な感じがする。MEのアジア会議のミサで司式しただけで、「ありがとう」と言ってくれるし、下手な英語で説教でもしようものなら、握手を求められたりする。おかげで、ボクも司式司祭に、「素敵なミサありがとう」などほめ言葉が言えるようになった。 賛美は「ほめたたえること」と手元の辞書にはある。ただ、神様をほめたたえる文化が日本にあったかどうか知らないが、人間的な言葉で神様をほめたてることは、ばかられるような感じもする。「神様を賛美します」というのはやり典礼用語と言えるかもしれない。「神様、あなたはやっぱりすごい!」ぐらいまでなら言えそうだが。いずれにしろ、もうすぐご降誕祭。生活の匂いのする神様への褒め言葉を探したい。 もうすぐクリスマス

私たちの常識と神様の計らいの不思議さのせめぎあいが信仰生活

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12月19日 今日のみ言葉 士師記13・2-7、24-25 サムソン誕生の次第 ルカ1・5-25 洗礼者ヨハネ誕生の次第 感想 サムソンの場合も、洗礼者ヨハネの場合もいずれもうまずめの出産。ことに、洗礼者ヨハネの場合は、ザカリアが素直に「ハイ」と言わなかったばかりに口がきけなくなった。神様のなさり方は、どこか乱暴な感じがする。もっとも、マリア様の前に「なれかし」があったら、マリア様の出番がなくなる。というか、目立たなくなる感じはする。こうした見方自体が常識的であって、信仰の視点とは言えない。 ともあれ、私たちの理解がどうであろうと、神様はご自分の計画を粛々と推進される。私たちは、喘ぎながらついて行く。もちろん、「なれかし」を口にしてはいるが、マリア様ほどの変わり身の早さはない。毎年、こうした中途半端なままでご降誕に臨むことになる。このパターンは、おそらく、生涯変わらない。それでも、ザカリアのようなバツを受けることはない。それこそが神様の忍耐。せめて、神様の忍耐に感謝しながら過ごしたい。 餅つきの日、鏡餅を作っているつもり

マリア様のなれかし、ヨセフ様のなれかし、私たちのなれかし

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12月18日 今日のみ言葉 マタイ1・18-24 「…ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた。」 感想 教会らしさは三つのなれかしで生まれる。先ず一つは、もちろん、マリア様のなれかし。二番目は今朝の福音に見られるヨセフ様のなれかし。そして、三番目が私たち信者のなれかし。問題は、つまり教会を教会らしくなくしてしまう、もっと厳しく言えば教会を壊す問題は私たちのなれかしがないこと。ないわけではないが、もろい。しかも、誰も深刻に咎めたりしない。何よりも、目に見える建物と違って形があるようでないのが教会なので、どこが痛んでいるのか判別できない。時々、赦しの秘跡を受けて何とか修復に努めようとはするが、マッタク効き目はないのが現状。 教皇フランシスコは、だから、「あなたに、話がある」と言われる。独りよがりの信仰生活。周りに迷惑をかけているのを分かろうとしない視野の狭さ。注意されても、すぐに反論を試みる闘争的信仰。で、いつの間にか、「目立つ釘は打たれる」、「触らぬ神にたたりなし」的、日本文化と融合した日本式信仰が教会弱体化に貢献している。主の降誕のカウントダウンが始まった。あなたのなれかしの質が問われている。 お話通りなりますように

聖書の中で最も退屈な記事は、マタイの第1章1節から始まる系図だが…

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待降節第3火曜日 今日のみ言葉 マタイ1・1-17 イエス・キリストの系図 感想 タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻(ベテシバ)これら4人の女性はいずれも罪の匂いのする人たち。ラハブは娼婦。ルツは異教徒。タマルは娼婦に化けて義理の父親との間に子をもうけた。ウリヤの妻の場合は悪いのはダビデだが、いずれにしても、こうした人々が救い主の先祖。人間的に見ればあまりいい血統とはいいがたい。 イエス様はそのことを十分わきまえておられたのではないか。マグダラのマリアをはじめ、異邦人のやもめの息子を生き返らせ、誰をも拒まれることはなかった。長々とした系図は確かに退屈で無味乾燥だが、誰もが愛される価値があるという福音の神髄を伝える目的があったものと思われる。 そんな救い主の心を私たちに見せてくれているのがフランシスコ教皇。日本中の人々に深い感銘を与えたと思う。今日も、そんな教皇に倣う日にしようと思う。 聖ヨハネ・パウロ二世は地面に接吻された

私にはよく分かりませんが、神様のお望み通りにして下さい。

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待降節第3月曜日 今日のみ言葉 マタイ21.23-27 「・・・何の権威でこのようなことをしているのか。誰がその権威を与えたのか。・・・」 感想 権威の「 威」には見れば分かることだが、「女」があり、「戈」(諸刃の剣)がある。ハムレットのセリフではないが、「弱き者、汝の名は・・・」とあるように、襟首をつかまれ、剣を突きつけられたら、女性でなくても思わず両手を挙げてしまうだろう。しかし、日本語の権威には、ある分野での知識や技術において右に出る人がいない人に対しても使う。最近の例で言えば、ノーベル賞の野口さんみたいな人だ。誰もが、「あ、すごいなー」と頷いてしまう権威。 しかし、「威」の元々の意味は「おどす」であり、「権威」というとパワハラを連想してしまう。しかし、大切なことは、権威に従うときの態度。私たちにとっての最高の権威者は神様であり主ご自身。ひな形となるのがマリア様の「なれかし」。昨日の聖劇でのマリア様のセリフは「私にはよく分かりません。神様のお望み通りにして下さい」だった。よく分からないことにこだわるのでなく、あっさりと「お任せします」と言える柔軟さが求められている。 そういえば、「権」はものの重さを量る「おもり」のことで、自由に取り替えるところから、「臨機応変」という意味があると字統(白川静著 平凡社)にはある。そこで、ピンときた。かねてから言っているように、信者の特徴は「変わり身が早いこと。いつまでもうじうじしない」。 待降節が後半にさしかかったが、残された日々、「なれかし」連発の毎日であるように。 One Team!

言っておくがエリヤは既に来ている。しかし、人々は彼を認めようとしない

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十字架の聖ヨハネ司祭教会博士 今日のみ言葉 マタイ17.10-13 「弟子たちは、イエスに、『なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか』と尋ねた。・・・「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。言っておくがエリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。・・・弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。」 感想 「ヨルダン川で洗礼を授けているヨハネがエリヤ?そんな馬鹿な!」指導者たちは、そのの頑迷さ故に、もはや、真実を見抜く力を持ち合わせてはいなかった。 「2000年前の話」と、 人ごとのように 聞いてはいけない。現代のエリヤは家族の誰かかもしれないのだ。いや、いつも顔を合わすお隣ご近所のあの人々、職場の同僚や上司かもしれないのだ。しかも、なかなか気持ちが通じない人かもしれないのだ。そんな風に周りを眺めるとき、「パワハラだ!」と叫びたくなる人だってエリヤかもしれないのだ。実際、ヨハネは、洗礼の列に並んでいるファリサイ派やサドカイ派の人々に向かって暴言とも思われる言葉を吐いたではないか。「まむしの子らよ!・・・」 どんな人に会おうと、「エリヤだ!」と思う一日にしたい。勇気のいることではあるが。 エリヤの情熱?

私は主、あなたの神、あなたを教えて力を持たせて導き道を行かせる。

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聖ルチアおとめ殉教者 今日のみ言葉 イザヤ48・17-19 「…私は主、あなたの神。私はあなたを教えて力をもたせ、あなたを導いて道を行かせる。・・・」 感想 今朝の福音では、人々が、洗礼者ヨハネに対しては、「悪霊にとりつかれている」と言い、”人の子”には「大食漢で酒飲み」と言って耳を貸そうとしない傍観者だと非難されている。私たちも、しばしば、聖書の話を他人ごとのように聞いている。しかし、けさのイザヤの預言にはしっかり耳を傾けて何度も味わった。 「 私は主、あなたの神。私はあなたを教えて力をもたせ、あなたを導いて道を行かせる。 」 神様が、なんとか信者らしく生き抜いてほしいと願っておられる気持ちがよく伝わるからだ。とくに、「あらゆる問題をなくして」ではなく、私たちに「力をもたせて」がポイント。手取り足取りの過保護の神ではなく、問題はいつもあるが、その問題に押しつぶされない力こそ必要。委ねる力さえあれば、おのずと道が開かれる。つまり、「あなたを導いて道を行かせ」てくださる。神とのコラボ進行=信仰。今日もそんな一日となるように。 ジョウビタキ-思い煩うこともなく

私は主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う

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待降節第2木曜日 今日のみ言葉 イザヤ41.13-20 「私は主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う。恐れるな、私はあなたを助ける、と。・・・あなたは山々を踏み砕き、丘をもみ殻とする。・・・あなたは主によって喜び踊り、イスラエルの聖なる神によって誇る。・・・」 感想 これは、イスラエル帰還の様子を描写しているという。前538年のキュロス王の勅令によってイスラエル人たちは解放されることになった。王の名によって帰還が許されたのだから、ある意味、大いばりで国に帰ることができたわけで、その様子が大げさに描かれていて喜びのほどがうかがえる。 ところで、今日の私たちにしてみれば、イザヤの言葉は、あまりにも現実離れしていて、奮い立つこともない。しかし、 「私は主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う。恐れるな、私はあなたを助ける」というみ言葉は、大きな慰め。顔をしっかり向けて手を握り「大丈夫!」と言われている感じがする。「このみ言葉だけで充分」という気にもなる。 学級閉鎖になるかもしれない。そうなると、15日の聖劇はどうなるか。一週間延期?「心配してもしょうがない。神様に委ねよう」で閉会。今朝の朝礼で、「閉鎖は大丈夫」との朗報。「恐れるな!」み言葉がこだました。 2歳児の”飛べないペンギン”見事にやリ遂げた!

クリスマスをワクワクしながら待つのは、サンタではなく本当のサンタ救い主

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待降節第二火曜日 今日のみ言葉 イザヤ40・1-11 帰還の約束 「…主のために荒れ野に道を備え、私たちの神のために荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。…見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主の勝ち得られたものはみもとに従い、主の働きの実りは御前を進む。…」 感想 神は絶えず救いの手を差し伸べて、毎日毎秒、私たちのことを気にかけておられる。しかし、そんな思いは頭では分かっていても具体的にあらわになることは多くない。「神様は確かにおられる!」とか、「神様が間違いなく働かれた!」と分かるときもある。そういうことが繰り返されて、信仰の腕は上がる。 そのことを、いわば国家事業として取り組んだのが捕囚の民だった。その推進役が預言者たち。今朝のみ言葉は、捕囚の地からの帰還を予告するもので、民としてボーっとして待つのでなく、神様が働きやすいように心を整えて準備するようにとの呼びかけ。当時の人々は、エルサレム帰還をワクワクしながら待ったのだと思う。 ワクワクすることはそう多いわけではないが、我が子よりもかわいいという孫の姿を見る時はいつもワクワクするのではないだろうか。ボクには体験のないことだが。ただ、我が平和な幼稚園でも、それぞれ重荷負って一生懸命生きている。ワクワクとは無縁の姿が、この人たちにも、歓喜の日が来るようにと毎日の祈りは欠かせない。 ただ、問題は依然残ったとしても、失望することなく希望の中で生きていけるというのが福音。教皇が言われたように、「信者を作るためではなく、人々が強く生きるために来た」(うる覚え)と言われたのはそのことだ。多くの日本人が教皇訪日とクリスマスが連動して、これまでとは違うワクワク感をもって祝ってくれることを祈りたい。 まだ未完成だが…

「なれかし」こそ、信者が教会の一員であり続けるための必須条件

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無原罪の聖母マリア 祭日 今日のみ言葉 ルカ1・26-38 お告げ 感想 15日のクリスマス会に向けて子供たちが準備に明け暮れている。特に、年長さんの聖劇は気合が入って、演技にも少しオーバーアクション気味。少しセーブしてもらったほど。そんな中、インフルエンザにかかる子が続出。マリア様もやられたらしい。代役が効かないだけに何とか全快してほしい。 ところで、無原罪の聖マリアは聖書にないだけにそれらしい聖書の箇所もない。そこは聖書と聖伝という2本立ての強み。「 ピオ9世は、1854年12月8日に『聖マリアの無原罪の宿り』を信仰箇条とした」(女子パウロ会HPより)。そして、4年後の「 1858年3月25日には、フランスのルルドで少女ベルナデッタに聖マリアが現われ『私は原罪がなくして宿ったものである 』 と言われた」(同上)。 今日の典礼の解説に次のようにある。「無原罪の宿りにおいても、マリアは、しみもしわも汚れもない聖なる教会(エフェソ5・27)の前表である。」教会は聖なる主が創設されたものだから、本来「聖なるもの」。しかも、神の子を生み出す道具という点では母である聖母に通じる。聖母が神の母となったのは、生涯を貫いた「なれかし」の一言による。信者が、 「しみもしわも汚れもない聖なる教会 」の一員であり続ける条件は、聖母と共に「なれかし」を生きること。今日も聖母と共に歩みたい。 一日ずれたが、8日は、第二次大戦がはじまった悲劇の始まりでもある。アフガンの聖者中村医師が殉職し悲しい帰国を余儀なくされた。慈しみの御父が、異国のために身命を賭して奉仕された尊い人生に存分にお報いくださるよう祈りたい。合わせて、世界平和のため聖母のとりなしを祈りたい。 キミ来ないの?

収穫は多いが働き手が少ない。働き手送って下さるように祈りなさい。

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聖アンブロジオ司教教会博士 司教叙階記念日 今日のみ言葉 「イエスは・・・群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、うちひしがれているのを見て深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。ダカラ、収穫のために働き手を送って下さるように、収穫の主に願いなさい。』・・・『天の国は近づいた』と述べ伝えなさい。・・・」 感想 子どもの貧困が言われて久しい。貧富の差は、豊かな国のはずの日本をも覆っている。周りを見ても、目をおいたくなるような貧しさに会うことはないが、うちひしがれていると感じることは多い。簡単に人の命を奪ったり、危険な運転で人を危険に陥れたり、何よりも子どもたちのいじめは日本に蔓延している。 そんな状況をも見聞きするにつけ、病んでいる姿にため息が出る。ため息と共に、「主よ憐れみたまえ」と祈ることしかできない現実が悲しい。それでも、「天の国は近づいた」と信じられるか。そんな、手に負えない現実はあるが、身近な人々の間では、ハラハラしながらも間違いなく信頼しながら祈り続けている現実もある。いや、むしろ、それが派遣されている私たちの使命。 信者は祈りで応援できる

その日には、盲人の目が開き、つぶやく者も正しく語ることを学ぶ

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待降節第二金曜日 今日のみ言葉 イザヤ29.17-24 「・・・その日には、耳の聞こえない者が書物に書かれている言葉すら聞き取り盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。・・・心の迷った者も知ることを得、つぶやく者も正しく語ることを学ぶ。」 感想 「その日には」はいわゆる慣用句で、「救いが実現する日」のことで、耳が聞こえなかったり、目が見えない人々にとってはその癒やしは救い。何よりも、心の迷いやブツブツと不平不満を述べていた人は、心が定まらず、自分の不幸を人のせいにしている。そんな状況から解放されることはまさに救い。 待降節は、不平不満ではなく、つぶやきでもなく、おおらかな心で全てを受け入れていこうとする、「その日」を先取りする季節。今日もそんな一日となるように。 ボク一人もうでも大丈夫!

主は祝宴を開き、全ての顔から涙をぬぐわれる。その救いを祝って喜ぼう。

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待降節第1水曜日 今日のみ言葉 イザヤ25.6-10a 「その日、万軍の主はこの山で祝宴を開き、全ての民に良い肉と古い葡萄酒を供される。・・・全ての顔を包んでいた布と全ての国を覆っていた布を滅ぼし、・・・全ての顔から涙をぬぐい、・・・この方こそ私たちが待ち望んでいた主。その救いを祝った喜び踊ろう。・・・」 感想 待降節は何があっても希望。理解し合えないと思っても希望。良く話を聞けばいい。意見がかみ合わなくても希望。良く耳を傾ければいい。聞いてもらえなかったと思っても希望。祈りながらそのときを待てばいい。全ては神の見ての中で生き、動き存在している。そんな「万軍の主」が「この山で祝宴を」用意しておられる。「この山」は私の現実。だから希望。 今日もそんな希望の証し人となれるように。 サギソウ・・・だったかナ

全ての人に対して全てのものになりました。ナントカして救うため。

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フランシスコ・ザビエル様命日 今日のみ言葉 1コリント9.16-19/22-23 「私が福音を告げ知らせても、それは私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。・・・福音のためなら私はどんなことでもします。・・・」 感想 今朝のパウロの手紙と朗読で読まれた、イグナチオに宛てたザビエル様の手紙が重なった。インドのある村を 訪問したザビエル様は お祈りも何も知らないでうち捨てられたような子どもたちを見て、次々と洗礼を授け、要理を授けた。 使徒聖トマは南インドに渡って宣教したことになっている。それから、1500年もの間、宣教は中断したのかもしれない。ポルトガル人も一人もいないと述べられている。そんな様子を見て、ザビエル様は、母国で研究にいそしんでいる司祭たちに「正気をなくした人のように 声を張り上げて乗り込んでいこうかという衝動にたびたび駆られます」と気持ちを吐露している。「勉強ばかりしていないでこの地域にやって来て福音を述べるのが急務だ」と言いたかったらしい。 そういえば、教会の幼稚園で働く先生たちはほとんどが信者ではない。しかし、子どもたちと一緒に、主の祈りやアベマリアを綺禮に唱えている。しかし、洗礼を受ける人はほとんどいない。どうしてかと思う。せめて、待降節の間、教会の幼稚園で働く先生たちも幼子を自らの救い主として受け入れて洗礼に導かれるよう熱心に祈る期間とするように呼びかけたい。 朝のお集まりでお祈りを先導するAさんの代表

待降節を通してのテーマは、事あるごとにマリアさまの「なれかし」

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待降節第一月曜日 今日のみ言葉 イザヤ4.2-6 「・・・主は昼のためには雲を、夜のためには煙と燃えて輝く日を造って、シオンの山の全域とそこで行われるそこで行われる集会を覆われる。・・・昼の暑さを防ぐ陰、嵐と雨を避ける隠れ場として、仮庵(かりいお)が建てられる。」 感想 指宿教会はじめ特に幼稚園をめぐる諸問題、ため息をつきたくなることには事欠かない。そんな中にあって、今日のイザヤの預言は慰めに満ちている。イザヤの活動期が、イスラエル分裂後だっただけに、いわゆる動乱期のさ中にある人々にはどれだけ慰めになったことか。もちろん、中には、「夢みたいなこと」と一笑にふす人たちもいたに違いない。「シオンの残りの者、エルサレムの残された者」という表現がそれを物語っている。 ともあれ、私たちの現実はいろいろ問題はあるとしても、当時とは比較にならない。それでも、イザヤのメッセージはそんな状況の私たちにも響いてくる。そして、待降節を迎えた信者にとって、どんな心の姿勢で過ごせばいいか示してくれている。ため息をつきたくなったら、マリア様のあの「なれかし」を口ずさむこと。マリア様は預言者ではなかったので、将来がどうなるか読めていたわけではない。だからこそ、「なれかし」には大きな意味がある。今日もマリア様と一緒に、「なれかし」を合言葉に希望の証人でありたい。 冬になっても咲くカイコウズ