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「霊性」の創始者イグナチオ・ロヨラはイエズス会の創立者でもある。

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今日のみことば マタイ13‣44-46「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見付けた人は、そのまま隠しておき、よろこびながらかえり、持ち物をすっかり売り払ってその畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」 感想  宝や真珠を見つけた人の驚きと喜びは想像に難くない。さぞワクワクドキドキしたに違いない。文字通り、「一人ほくそ笑んだ」に違いないのだ。  ま、そんな話は私たちには無縁だとしても、ワクワク感は大事にしたいとは思う。自然界のことにしろ、自分の中のことにしろ、小さな発見、小さな気づきに思わず歓声を上げたくなる自分なのかが問われている。  今日のみ言葉はそんな柔らかい感性が信仰を豊かにし潤いのあるものにすることを教えているように思えた。  本文とは関係ないが、我らがザビエル様はイグナチオ・ロヨラの呼びかけに答えてイエズス会創立にかかわった、いわゆる共同創立者。 夏到来

百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶとはどういう意味?実感はわかないが…

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今日のみことば マタイ13・18-23「種をまく人のたとえを聞きなさい。誰でも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪いものが来て、心の中にまかれたものを奪い取る。道端にまかれたものとはこういう人である。石だらけのところにまかれたものとは、御言葉を聞いてすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないのでしばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こるとすぐに躓いてしまう人である。いばらの中にまかれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで実らない人である。よい土地にまかれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」 感想  道端、石だらけ、いばらの土地。それぞれ実りをもたらすことはない。しかし、これは私たち自身の現実の姿。  いかに恵みの取りこぼしが多いことか。気分によって不機嫌になる自分、心を閉ざし人を締め出す自分、思い通りにいかないことでイライラする自分。  しかし、間違いなく実りをもたらす自分もある。素直にうなづくとき、前向きな気持ちで誰かを受け入れるとき、人々に喜びと希望をもたらすとき。神様が喜んでくださることは間違いない。そして、「よくやった!」とほめてくださるのだ。そして、さらに励むように祝福を送られる。信者にとってこれ以上 の喜びはない。 実を結ぶとはこういうことではないのか。 前園長への教皇祝福授与式

信者になった本当の意味を悟るのはなかなか難しい。なぜか?

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今日のみことば ヨハネ 20 ・ 11- ⒙「マリアは、墓のそばに立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあったところに、白い衣を着た二人の天使が見えた。・・・「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「私の主が取り去られました。どこに置かれているのか私にはわかりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。・・・イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボ二」と言った。「先生」と言う意味である。イエスは言われた。「私に縋りつくのはよしなさい。まだ、父のもとへ上っていないのだから。私の兄弟たちのところへ行ってこう言いなさい。“私の父であり、あなた方の父である方、また、私の神でありあなた方の神である方のところへ私は上る”と。マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「私は主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを継げた。 感想 埋葬された主が突然目の前に現れたのだから、まさに天にも昇る思いで「先生!」と声を上げて駆け寄りハグしたくなったのは当然だ。しかし、主の反応は違っていた。むしろ、冷静に指示を出された。その指示とは、ほかでもない、「主は復活された」というビッグニュースを弟子たちに知らせること。懐かしさに浸っている暇はない。ハッと我に返ったマリアは大急ぎで思いがけないミッションに急いだ。 私たちの信仰は同じところに留まることを許さない。何はともあれ、信者になったのだからじっとしていないで復活の証人になることが求められている。 希望の人、喜びの人となること。答えは簡単でもなかなか…。 二反田川のアオサギ

「私が求めるのは憐れみであって、いけにえではない」という主の言葉の真意は?

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今日のみことば マタイ12・1-8「ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイはの人々がこれを見て、イエスに、『御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている』と言った。そこで、イエスは言われた。『ダビデが自分も供の者たちも空腹だった時に何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。・・・もし、”私が求めるのは憐れみであっていけにえではない”という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちを咎めなかったであろう。』」 感想  ”いけにえではなく憐れみを“、「新しい時代にふさわしい目を持たなければならない」という強い思いがにじむ言葉だ。いけにえに代表されるさまざまな掟はイエス様の目から見ればもはや”こだわり”でしかない。エジプト脱出後すでに1200年も過ぎた当時、掟はあのエジプト時代をほうふつとさせるほどに人々を不自由にしていると感じたのがイエス様。この視点は、現代の信者にとってもいわば信仰生活の黄金律だ。  いけにえが言わんとする掟は形を変えて私たちを縛っている。教会内の習慣、伝統にはじまり、個人的にも身についた習慣や生活様式などは容易に手放せるものではない。しかし、絶対的なものでないことも分かっている。  こうしたことが、自分をも周りの人をも不自由にしていると気が付くのは難しい。だから、人間関係に亀裂を生じることさえある。  形ではなく、心の姿が神様につながっていることが何よりも肝要。そのことを知るのが信仰であり祈り。これもまた、難しい。だから、孤独の祈りで神様につながる練習は欠かせない。繰り返すことになるが、勉強でも間に合わないことを肝に銘じたい。 マリア様横に咲いているが名称不詳  

「私の荷は軽い」と言われたも確かめようのないことだが…

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今日のみことば マタイ11.28-30「疲れた者、重荷を負う者は誰でも私の元に来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなた方は安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」 感想  「私の荷は軽い」と言われても、「そうですか」というわけにはいかない。生木の十字架が軽かったはずがないではないか。どうしてもピンとこない話だ。しかし、イエス様の受難と死が私たちの救いのためだったことを考えると、思わず、「アーア!」とため息をつきたくなることでも、代わりにイエス様が担いで下さるので軽くなる?ウーム、ちょっと無理があるなー。すると、やっぱりこれは、物理的な話ではなくて、気持ちのモンダイ?つまり、「イエス様と一緒に担ぐ」気になったらできる。  それもいいが、もう一つ大事なことがあるのではないかと思う。もし、イエス様に倣って、自分も日々、柔和と謙遜を生きようと本気になれば、十字架だと思ってため息をついていたこともヒョイと受け取れるようになる、のではないか。 一人を楽しむのは人間だけではなさそう

信仰の原点を出エジプトに求め徹底して「自らのこだわりからの解放」を追求するのがコツ

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今日のみことば 出エジプト記3・1‐6、9-12「モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追っていき、神の山ホレブに来た。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主のみ使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに柴は燃え尽きない。・・・ …神は続けて言われた。『私はあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。主は言われた。『…行きなさい、私はあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。』・・・」 感想  また勉強否定の話になるが、大事にしてほしいのは出エジプトのメッセージ。信仰の最大の関心事は「こだわりからの解放」でなければならない。知識にこだわり、経験にこだわり頭も心も固くしてしまうのが怖い。  人間関係を壊すのはこだわり。対立を生むのもこだわり。こだわりこそが足元の平和を壊す。「義母は熱心な仏教徒。だから、今はミサに行きません。家庭が壊れるといけないから。」悪びれることなくきっぱり。しかし、彼女の心は間違いなく信者だった。  自分のこころは自由か?どんなことにこだわっているか?そんな自分探しは一生しなければならない。信仰を細らせないために。あ、もう一つ「思い込み」も問題。先日、先生たちが演じたお誕生会での「ネズミの婿探し」の人形劇は示唆に富んでいた。 ネズミの婿探し 一番偉いのは太陽かと思ったら…  

洗礼を受けて神のものになったということには特別の意味がある

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今日のみことば マタイ11,20-24「イエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので叱り始めた。『コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、チルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めたに違いない。・・・しかし言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。』」 感想  「一般の人よりも信者に厳しいのがイエス様。」今日のみことばからくみ取りたいメッセージだ。信者は世の中に生きているが、世の人々が知らないイエス様の価値観を知っているからだ。もっとも、アタマで分かっているだけの人がいることも確か。「ヘンなオジサンだったり、ヘンなおばさん」だったりすることがあるからだ。たしかに、我が道を行くのはいいが、信者になってイエス様の知り合いになったということがどんなことなのか真剣に考えてほしいと思うことは多い。  ついでに言えば、「信者よりも司祭に厳しいのがイエス様。」ということも本当。なぜか、家族を養う義務から解放されている分、自由。それだけに、ミサと祈りに専念することが求めらえているからだ。  そうは言っても、「司祭にやさしいのが司教。」ある司教さんの忠告だ。その点、ボクは逆だった。つらい思いをした司祭は多いに違いない。もっと優しく関わればよかったかもしれないとは思うのだが。  ともあれ、今日も主が称えられますように。 鏡池 無風時は開聞岳が湖面に映えるという

「信仰のウデは勉強では上がらない。」モーセが教えているではないか。

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今日のみことば 申命記30・10-14「モーセは民に言った。あなたは、あなたの神、主のみ御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に立ち返りなさい。  私が今日あなたに命じるこの戒めは、難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。それは、天にあるものではないから、『誰かが天に昇り、私たちのためにそれを撮ってきて聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うには及ばない。・・・御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだからそれを行うことがでる。」 感想  表題を文字通り理解してもらっては困るのだが、今日の本文をボクが読むとこうなる。ミサ中鉛筆を持つ信者がいたり、ミサの本を見ながらあずかる人もいたりする。筆記したり、本を手にする行為は 知的活動ではあっても 祈りではない。ミサは勉強の時ではない。司祭と共に捧げられる祈りだと認識している。説教はしっかり聞いてもらえたら、忘れてもいい。一生懸命聞くことを勧めたい。心が耕されるからだ。勉強は頭の体操であって心を耕す力はないことを忘れてはならない。  聞くと言えば、あの「聖書と典礼」が普及している日本では聞くことよりも一緒に読むことが普通になっている。ミサで朗読される御言葉は聞く対象であって読み物ではない。まず、この聞く練習から始めて欲しいと思う。何回「読むミサ」にあずかってもウデは上がらない。コツを外した練習は労多くして実りは少ない。  申命記はモーセの遺言だと言われる。「勉強すればもっとましな信者になれるかもしれない」と思うのは妄想。もっとましな信者になりたければ、ミサ参加の質を高めようとするだけで十分。今日のみことばの後半でモーセが言いたかったことを味わって欲しい。あ、セッキョウになった。 誕生会で園児たちが奉納した

「恐れるな」と繰り返されて頭では分かっても、実際はチョウ難しい

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今日のみことば マタイ10・24-33「・・・人々を恐れてはならない。覆われているもので表されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはないからである。・・・体は殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。・・・あなた方の髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、沢山のスズメよりもはるかに勝っている。  だから、誰でも人々の前で自分を私の仲間であると言い表すものは、私も父の前でその人を私の中であると言い表す。しかし、人々の前で私を知らないという者は、私も天の父の前で、その人を知らないという。」 感想  「・・・だから、恐れるな」と何回言われても、「ハイ分かりました」というのがボクの反応。つまり深刻ではない。しかし、最後の「だから・・・」はそうではなかった。今日のみことばの結論のように響いたからだ。さてどういうことか。  もちろん、「私はイエスさまの仲間です」と言ったりはしないし、まして、「イエスさまなんか知りません」などと口にしたことはない。しかしだ、ことばではなくても、自分の不親切な言葉遣いや人を無視したりすることで、実質的には「知らない」と言ったこも同然だと言われたら、数知れない。まさに、「行いの伴わない信仰は死んだもの」というヤコブの叱責にシュンだ。   派遣された使徒たちの合い言葉 「平和があるように」を粗末にすることのない一日にしたい。 平和行進?

失った最愛の息子との夢のような再会を果たしたイスラエル

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今日のみことば 創世記46・1-7,28-30「イスラエルは一家を挙げて旅立った。そして、ベエル・シェバに着くと、父イサクの神にいけにえを捧げた。・・・ヨセフは車を用意させると、父イスラエルに会いにゴシェンへやって来た。ヨセフは父を見るやいなや、父の首に抱きつきその首にすがったまましばらく泣き続けた。イスラエルはヨセフに言った。『わたしはもう死んでもよい。おまえがまだ生きていて、おまえの顔を見ることができたのだから。』」 感想  感涙にむせぶ親子とその兄弟たち。時空を超えて蘇るリアルな感動場面だ。しかし、この歓喜も長くは続かないことを私たちは知っている。もっとも、ヨセフ亡き後の話だから何十年かは好待遇のもと異国での生活をエンジョイできた。しかし、いずれ、その後400年にも及ぶ奴隷生活の始まりだったとは誰が予想しただろうか。  平和な日本にいる私たちにとって、これほどの過酷な出来事は想像しにくいが、程度の大小はあるとしても、意に反することや想定外のことに直面することはよくある。そうしたことの中にも神様の思いが秘められていると感じられたらいいと思う。 身を潜めて警戒するカルガモの母鳥      

ヨセフ物語パート2は文字通り物語のクライマックス、赦しとヨセフの霊性

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今日のみことば 創世記44‣18-21a,23b-29,45・1-5「ユダはヨセフの前に進み出て言った。『…私どもは、あなたさまの僕である父のところへ帰り、ご主君のお言葉を伝えました。…するとあなた様の僕である父は”…私の妻は2人の息子を産んだ。ところが、そのうちの一人は私のところから出て行ったきりだ。きっと噛み裂かれてしまったと思うが、それ以来会っていない。…”』と申しました。ヨセフは、…もはや平静を装っていることができなくなり、”みんなここから出て行ってくれ”と叫んだ。…ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした。…ヨセフは兄弟たちに言った。”私はヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。″…”私はあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は私をここへ売ったことを悔やんだり責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私たちより先にお遣わしになったのです。”」 感想  父親の寵愛を一身に受けたヨセフをねたんだ兄弟たちによって穴に投げ込まれたり、隊商に売り飛ばされたりしたことに対する恨み言を口にしないばかりか、「 命を救うために、神が私たちより先にお遣わしになったのです」と断言できるヨセフの高邁さ。  どんなことにしろ、神様の手の中で起こっていることを信じているのだから、ヨセフのこの霊性にいつも忠実でありたいと思う。 教皇からの祝福色紙-ヨセフは知らない

旧約聖書のヨセフ物語は手が込んでいて救いの技が一筋縄ではいかない証?

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今日のみことば 創世記41・55-57,42‣5-7a,17-24a「そのころ、エジプト全土にも飢饉が広がり、民がファラオに食物を求めた。ファラオは『ヨセフのもとに行ってヨセフの言う通りせよ』と命じた。…イスラエルの息子たちは、他の人々に交じって穀物を買いに出かけた。…ヨセフの兄たちは来て、地面にひれ伏し、ヨセフを拝した。ヨセフは一目で兄たちだと気づいたがそ知らぬふりをして厳しい口調で、『お前たちはどこからやって来たのか』と問いかけた。ヨセフは彼らを三日間牢獄に監禁しておいた。三日目になってヨセフは彼らに言った。『こうすればお前たちの命を助けてやろう。私は神を畏れる者だ。お前たちが本当に正直な人間だというのなら兄弟のうち一人だけを牢獄に監禁するから、ほかの者は皆、飢えているお前たちの家族のために穀物を持って帰り、末の弟をここへ連れて来い。そうして、お前たちの言い分が確かめられたら殺されはしない。』かれらは同意して互いに言った。『ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。…』するとルベンが答えた。『あの時私は、あの子に悪いことをするな、と言ったではないか。お前たちは耳を貸そうともしなかった。だから、あの子の血の報いを受けるのだ。』彼らはヨセフが聞いているのを知らなかった。ヨセフと兄弟たちの間に通訳がいたからである。ヨセフは彼らから遠ざかって泣いた。 感想  聖書の中の数ある物語の中で、ボクにとって最も感動的な場面だ。それにしても、救いの歴史は込み入っていて回りくどい。もっとスッといかないものかとも思うが、考えてみると、人一人の歴史を見ても、山あり谷ありのジグザグコースだ。  イスラエルが体験した救いの歴史は、スケールの違いは比較にならないとしても、ボク自身の歴史そのものとも言える。というよりも、旧約の歴史はボクにとって他山の石的な意味を持っている。旧約を眺め、そして我が身を振り返る。そうして見えてくる神様の計らいを学びながら生きているように思うからだ。 歌うノビタキ190709

口のきけない人がものを言い始めたとはどういうことだったのか

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今日のみことば マタイ9・32-38「悪霊にとりつかれて口のきけない人が、イエスのところに連れられてきた。悪霊が追い出されると口のきけない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、『こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない』と言った。…」 感想  悪霊にとりつかれた人を見たことはないが、口のきけなかった人がペラペラしゃべりだした時の喜びは想像できる。それまで、どれほどもどかしい思いをしたことか。滑らかに動くようになった舌を駆使してイエス様にどれほど感謝の言葉を述べたことか。そして、見たことのない不思議な光景に驚いている周りの人々に、「この方のおかげです!」と満面の笑顔でイエス様をたたえたことか。  そうなのだ。舌の美しい使い方があるとしたら、誰かに感謝し、その人をたたえることに違いない。そして、一番美しいのは神様をたたえることに尽きる。 生まれたばかりのスズムシ/白いひげだけが見えた  

「知らなかった」とヤコブが言うことと「眠っている」のは同じこと

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今日のみことば 創世記28・10‐22「ヤコブはべエル・シェバを立ってハランへ向かった。と、ある場所に来た時、日が沈んだのでそこで一夜を過ごすことにした。…すると彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向って伸びており、しかも、神の使いたちがそれを上ったり下りたりしていた。見よ、主が傍らに立って言われた。『…私は、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。』ヤコブは眠りから覚めていった。『まことに主がこの場所におられるのに 私は知らなかった。 』…」 マタイ9・18‐26「その時イエスが話しておられるとる指導者がそばに来てひれ伏していった。『私の娘がたった今死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば生き返るでしょう。』…イエスは指導者の家に行き、…言われた。『…少女は死んだのではない。 眠っているのだ。 』…」 感想  「知らなかった」というのは「気が付かなかった」ぐらいの意味かと思う。 ヤコブほどの神秘体験はないとしても、「全く気が付かなかった」体験ならよくあることだ。しかし、「気が利かない!」批判されることもある。そうでなくても、そんな人を見ると口に出さなくてもイライラすることはある。  また、指導者の娘のような奇跡に遭遇したこともないが、気が付かないとことと眠っている状態は比ゆ的には同じようなこと。つまり、 感性が鈍っているのはいわば五感が眠っているようなものだという意味で。  「気が利かない」、「何度言っても分かってくれない」、などなどに遭遇したら、「眠っているのだから起きるまで待とう」と気長に待てる自分になりたい。 やっと色づき始めた子どもたちのミニトマト

忙しい時に限って主は声をかけてペトロにマタイを呼び出された

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今日のみことば マタイ9・9‐13「その時イエスは、通りがかりにマタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『私に従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。…『医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である。』『私が求めるのは哀れみであっていけにえではない』とはどういう意味か行って学びなさい。私が来たのは、正しい人を招くためではなく罪人を招くためである。」 感想  ペトロやアンデレの場合もそうだったが(マタイ4・18)、マタイ自身の場合も仕事中に声をかけて弟子となるよう促された。マタイの場合は「収税所に座っていた」とあるだけなので、もしかしたら、暇そうにしていたのかもしれない。しかし、前者の場合は「網を打っている」とあるので明らかに仕事中。  空気が読めない人だった?とも思うが、いずれの場合も、はじかれたようにその場を離れ「ヒョイ」とついていったところを見ると、イエス様から出ている抗いがたいオーラに圧倒されたのかもしれない。  さらに言えば、信仰するということと忙しいということは両立するというメッセージなのかもしれないとも思う。どんなに多忙でも「心が滅びる」ことなく弟子としての心で生活してほしい。教会創設者の思いには違いない。 知林ヶ島で響く幸せの鐘

神からの難問に答えたアブラハムの言葉は今も有効、生きる知恵

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今日のみことば 創世記22・1‐19「神はアブラハムを試された。…『あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れてモリヤの地に行きなさい。私が命じる山の一つに上り、彼を焼き尽くす捧げ物として捧げない。』次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げものに用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。…イサクは言った。『火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げものにする子羊はどこにいるのですか。』アブラハムは答えた。『私の子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。』…。」 感想  「過去のことは神様の慈しみに、現在のことは神様の愛に、将来のことは神様の計らいにゆだねる。」  アウグスチヌスの言葉だったように思うが…。アブラハムは息子イサクの質問にどれほど心を痛めたことだろうか。しかし、動ずることなく「神様がいいように計らってくださるだろう」と即答した。まさに金言。今も力強く生きるための知恵の言葉。  じたばたしないでアブラハムのように生きたい。 どんな悪条件下でもしたたかに咲くタカサゴ百合

インドに渡ったとされるあの疑り深い使徒聖トマは誰よりも正直者だった?

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今日のみことば ヨハネ20・24‐29「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスはイエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこでほかの弟子たちが、『私たちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘後に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ私は決して信じない。』さて、八日の後、弟子たちまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸には皆鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなた方に平和がるように』と言われた。それからトマスに言われた。『あなたの指をここに当てて私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばしてわたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』トマスは答えて、「私の主、私の神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。『私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。』。」 感想  6世紀の著名な神学者大聖グレゴリオ一世教皇の解説を紹介しよう。 「…『見ないのに信じる人は幸いである。』ここで述べられている『見ないのに信じる人』とは、主を肉眼では見ていませんが、心でとらえている私たちをはっきり指しています。ただしそれは、信じていることを私たちが実行することが前提となっているのです。真に信じている人とは、信じていることを実行している人だからです。反対に、名だけの信者に対してパウロは、『こういう者たちは、神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定しているのです』(テトス1・16)と言っています。だから、ヤコブも、『行いを伴わない信仰は死んだものです』(2・20)と言っているのです。」(毎日の朗読第5巻213頁)  またも出た。自分にこだわるとこうなる。 なれかし!全てを受け取ったマリア様に習いたい

塩の柱になったロトの妻の話は史実かどうかはともかく教訓に満ちている

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今日のみことば 創世記19・15‐29「夜が明けるころ、御使いたちはロトをせき立てて言った。『さあ早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。さもないと、ソドムの町に下る罰の巻き添えになって滅ぼされてしまう。』…『命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと滅びることになる。』…太陽が地上に昇った時、ロトはツォアルに着いた。主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。ロトの妻は後ろを振り向いたので塩の柱になった。…。」 感想  取るものも取りあえず逃げ出したもののロトの妻は大事なものを持ち出さなかったことに気が付いたのか思わず振り返った。よく分かる。しかし、瞬時に塩の柱になったというむごい話。何か意味があるとは思うのだが、理解に苦しむ神の計らいの一つだ。  そうはいっても、この悲劇を他人事と眺めてみると、このところミサで繰り返している「こだわり」の問題に戻る。しかも、今日の話は、今までそこまでは露骨に言ってないが、「こだわりは実を結ばないどころか不毛」ということになる。「こだわりの悲劇性」という論文が書けそう。  もちろん、思わず破顔一笑の微笑ましいこだわりもあるし、思わず両手を合わせたくなるこだわりのおもてなしだってある。問題は周りの迷惑をわきまえないこだわり。これはもう、単なる自己固執という癒しがたいわがままなので、特に信者の場合は平和を壊すことにもなる罪の状況。平和の基となるいいこだわりを生きたい。 86水害を思わせる梅雨末期の豪雨が続く