塩の柱になったロトの妻の話は史実かどうかはともかく教訓に満ちている

今日のみことば

創世記19・15‐29「夜が明けるころ、御使いたちはロトをせき立てて言った。『さあ早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。さもないと、ソドムの町に下る罰の巻き添えになって滅ぼされてしまう。』…『命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと滅びることになる。』…太陽が地上に昇った時、ロトはツォアルに着いた。主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。ロトの妻は後ろを振り向いたので塩の柱になった。…。」

感想

 取るものも取りあえず逃げ出したもののロトの妻は大事なものを持ち出さなかったことに気が付いたのか思わず振り返った。よく分かる。しかし、瞬時に塩の柱になったというむごい話。何か意味があるとは思うのだが、理解に苦しむ神の計らいの一つだ。
 そうはいっても、この悲劇を他人事と眺めてみると、このところミサで繰り返している「こだわり」の問題に戻る。しかも、今日の話は、今までそこまでは露骨に言ってないが、「こだわりは実を結ばないどころか不毛」ということになる。「こだわりの悲劇性」という論文が書けそう。
 もちろん、思わず破顔一笑の微笑ましいこだわりもあるし、思わず両手を合わせたくなるこだわりのおもてなしだってある。問題は周りの迷惑をわきまえないこだわり。これはもう、単なる自己固執という癒しがたいわがままなので、特に信者の場合は平和を壊すことにもなる罪の状況。平和の基となるいいこだわりを生きたい。
86水害を思わせる梅雨末期の豪雨が続く

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