投稿

5月, 2019の投稿を表示しています

どうでもいいけど、マリア様は白人ではない、と思うのだが

イメージ
今日のみことば ルカ1・39-56「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かいユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。・・・「あなたは女の中で祝福された方です。・・・」・・・そこでマリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。・・・」 感想  マリア様は物静かでも引っ込み思案ではなかった。むしろ行動的で活発な方だったのではないか。そのため、透き通るような白い顔ではなく、浅黒い東洋的な顔立ちだったに違いない。  ナザレからユダの町(アインかレム=エルサレムの南、と言われている)までの旅は、当時危険を伴うものだったという。徒歩だと3,4日かかると思われる。ロバに乗っても似たようなものだったのではないか。心配が先立っても、「何とかなる」(なれかし)と即行動に出ることができた。  それに、エリサベトの挨拶に対する返事は自分に働かれた神のみ業を 臆することなく 賛美できる明るい性格だった。  男女ともに憧れるバランスのとれた人格を備えたマリア様。だからみんなの母。 自室の聖母

ユダの裏切りに自分の不条理の死、昆虫の目ではなく鳥の目で

イメージ
今日のみことば ヨハネ⒗16-20「…はっきり言っておく。あなた方は泣いて悲嘆にくれるが、世は喜ぶ。あなた方は悲しむがその悲しみは喜びに変わる。」 感想  これほど悲惨な事件が立て続けに起こるとさすがに思ってしまう。「神様は人間を造ったことを後悔しておられないのだろうか?」  終わりの時を迎えたイエス様の立場は父なる神と同じ状況。いい表現ではないが、まさに「飼い犬に手を噛まれた」のだから。そうはいっても、イエス様のことだから、世を眺めて深い心痛の父の心境を察しておられたに違いない。  「ほーら見ろ」と世の勢力がイエス様の孤立を当然視し、ユダの裏切りを高みの見物と決め込んでいる状況にもかかわらず、すべてが「喜びに変わる」と断言できたのは、今の状況も御父の救いの計画という長い時の流れの中にあることをわきまえておられたからではないか。  昆虫の目ではなく鳥の目で今日のすべてを眺めながら生きたい。 夕日に映える十字架

聖霊は語らない。聖霊は語らせる。聖霊はその気にさせるかた。

イメージ
今日のみことば ヨハネ⒗12‐15「…真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、聞いたことを語り、また、これから起こことをあなた方に告げるからである。…」 感想  「聖霊は自分からは語らない。」一瞬「エッ?」と思った。「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままにほかの国々の言葉で話し出した」(使2・4)とあるからだ。  いままで「聖霊が語らせた」ことを「聖霊が語った」と勘違いしていたように思う。聖霊は、あくまでもイエス様の弁護者として私たちの心を開き、素直にし、聞ける状態にしてくださる助け手。  だから、聖霊はその気にさせる方。聖霊の役割が明確になった今朝のみことばだった。 聖母が花々で飾られた

みことばの勝手な読み込みは本道からそれる危険がるあから要注意?

イメージ
今日のみことば ヨハネ⒗ 5 ⁻ 11 「…私が去っていかなければ、弁護者はあなた方のところに来ないからである。私が行けば、弁護者をあなた方のところに送る。…」 感想 「弁護者」というのは聖霊のことだが、英語では「慰め手」という訳になっている。日本語の訳だと、「弁護者は誰のための弁護者?」と聞きたくなる。今朝、ふと沸いた疑問だ。これまでは。「私たちのための弁護者」だと思っていた。しかし、話の流れからするとイエス様が去って送られるのだからイエス様の代わりに働くのが弁護者ということになる。 イエス様の話は弟子たちだけでなく私たちにもスッと入ってこないことは多い。思わず反論したくなることだってある。そんな私たちに、「ちょちょっと待ってください。イエス様が言いたいのはこうこうこういうことです」と弁護してくれるのが聖霊。だから、「弁護者というのはイエス様の弁護者」ということになる。 そうして、「なるほど」と納得して心が穏やかになりイエス様の思いの深さに感動する。だから、聖霊は「慰め手」となる。英語の訳にあたった人たちは弁護者の働きの結果に心が動いた? いずれにしても、弁護者は弟子たちはもちろん私たちのために送られているのは間違いない。で、今日も弁護者の的確な働きに信頼して心穏やかに過ごしたい。 聖書の庭も青々と豊かになってきた

「私があなた方を選んだ、世から選び出した」と力まれても・・・

イメージ
今日のみことば ヨハネ15・18-21「・・・あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。・・・」 感想  そう言われても私たちが世に属し、人々と同じ場所に住み、同じようなものを食べて生きていることに変わりはない。だから、「世から選び出」されたという実感はない。  それでも、パウロの「 あなたがたは世に倣ってはなりません」(ロマ12・2)という警告は、具体的にどうすることなのか即答できなくても素直に「ハイ」と言える。  私たちが洗礼を受けたということは、イエスさまの高邁な生き方に共鳴し、憧れ、失敗しても、イエス様が唯一のよりどころの証としての「ハイ」を繰り返しながら日々新たな気持ちなろうとすること。それならできそうに思う。 狭い桶から、昨日新築の広い我が家に引っ越した

知り合い、お隣さん、同級生、友達、親友の違いは?

イメージ
今日のみことば ヨハネ15,12-17「…私はあなたがたを友と呼ぶ。…」 感想  たまたま手にした英語の註解書によると「友」ではなく「最愛の」ものとあって、ずいぶん意訳したものだと感心した。それでも、もっと知りたくなったので、調べてみて今度はなるほど!で、ボクの結論は「親友」が適訳。友と愛(アガペーではない方)の語根は同じらしいのだ。そんなわけでタイトルの謎かけになった。  ともあれ、イエス様から「親友」と呼ばれたら、大勢の友達の一人ではないということなので、「身に余る光栄」と身が縮む感じもするが、やっぱりうれしい。「親友だって!ウフッ!」 心がパッと明るくなった

「愛しなさい」という掟は分かりきっていることながらハンパない

イメージ
今日のみことば ヨハネ15・9⁻11「…私の愛にとどまりなさい。私が父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、私の掟を守るなら、私の愛にとどまっていることになる。…」 感想  「愛する」という言葉は美しいと思う。というのも、「愛」は「心が一杯になって行き悩む」という意味があるからだ。つまり、心が何かのとりこになってその場をスッと立ち去れない状態のこと。だから、あまりにも平易に言いすぎるかもしれないが、愛は強いこだわりの一種。  「こだわる人」と言えば融通の利かない面倒くさい人という意味合いがあるように思うが、「こだわり」には「気にかけること」(精選版日本国語大辞典)という意味がある。前置きが長くなったが、要するに、だから「愛する」ことは「こだわりの一種」と言えるのではないか。で、 「…私の愛にとどまりなさい」と言うのは「私にこだわってほしい」ということになる。  しかし、人間誰もがこだわりがあるものだ。自分の習慣や決まり事など簡単に譲れるものではない。譲れないばかりにいろいろのトラブルも発生する。  イエス様はそのことよくご存じだったので、「もっと私にこだわってほしい」と願われた。だから、イエス様のことをもっと気にかけながら今日も歩んで行きたい。 エニシダの花と聖母(ザビエル聖書の庭)    

私はブドウの木につながって実を結ぶ枝かそれとも

イメージ
今日のみことば ヨハネ15,1-8「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。私につながっていながら実を結ばない枝は皆父が取り除かれる。・・・」 感想 果たして私は実を結ぶ枝かそれとも結ばないので切り取られる枝か。そう問うことはあまり有益ではないように思う。第一結論が出そうにない。むしろ、農夫である御父が何とか実を結ぶ枝になるように手入れをして下さる様子をイメージした方が心が安まる。というか、私のために誠実に働いて下さっている父の姿をイメージするならそれだけ御父に恩を感じることができるような気がするからだ。恩を感じるとき、初めて自分の置かれた立場を客観的に見直すことが出るようになるのではないか。自戒の念も生まれる。そうしているうちにに実を結ぶ枝になれるような気がした。農夫の御父を感じたい。 セアカスズメも御父の庇護の元で安らか

なんとなく分かった!日本と韓国の教会の違いは挨拶にあった!

イメージ
今日のみことば ヨハネ14・27-31a「私は、平和をあなた方に残し、私の平和を与える。私はこれを世が与えるように与えるのではない。・・・」 感想  イエス様が与える平和とはいわゆるシャローム。今日でも使われる挨拶。別れの挨拶もこれ。シャロームは神様との調和(ボクのことばで言えば『神様に波長を合わせようとすること』ーピンとこないかも)から生まれる心の静けさのこと。と聞いて思い出したのは韓国語の挨拶「アンニョンハセヨ」。アンニョンは安寧と書くと聞いた。手元のデジタル大辞泉には「無事で安らかなこと」とある。シャロームそのものではないか!朝・昼・晩・分かれるときも「安寧!」  どちらも、対面する人の安寧や平和を願う心情は共通。こうした精神風土は日本語の挨拶には感じられない。韓国の精神風土は限りなく「神の民」に近いと言える。発展の違いもここにある? 子ども農園ー各苗には86名の名札が吊されてある  

イエス様にイライラするのは不信の始まり?それとも単なる不満?

イメージ
今日のみことば ヨハネ14,21-26 「…イスカリオテでない方のユダが『主よ、私たちには御自分を表そうとなさるのに世にはそうなさらないのはなぜでしょうか』」イエスは答えて言われた。『私を愛する人は私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私はその人のところに行き一緒に住む。…父が私の名によってお遣わしになる聖霊があなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。』」 感想  ユダはこの答えを聞いて「なるほど」と思っただろうか。ますます「???」ではなかったのか。ボクの場合はイライラするだけだ。どうしてスッと正解をくださらないのだろうかと思う。言葉が多い割には、いまいちはっきりしないので「それで?」とのモヤモヤは残る。  なんとか、手掛かりはないものかと註解書を開いた。「ことばは世にあった。世はことばによって成ったが、世はことばを認めなかった」(ヨハネ1,10)。「だから、私を認めなかった人々には無理に教えたりはしないのだ」ということ?  「韓国教会は発展するのに、日本はどうして?」みたいな疑問がユダにもあったことは興味深いが、いずれにしても、「 『父が私の名によってお遣わしになる聖霊があなたがたにすべてのことを教え 』 てくださるからそのうち分かるよ」というのが答え?  なんでも答えを引き出そうとしなくてもいい。神秘は神秘として取っておけばいい。ここらで手を打つか。   幼稚園の掲示板より

キリスト教は愛の宗教というが、それだけで話は終わらないのがキリスト教

イメージ
今日のみことば ヨハネ13,31-33a,34-35 「・・・あなた方に新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。  私があなた方を愛したようにあなた方も互いに愛し合いなさい。・・・」 ヨハネの黙示1,1-5a 「私ヨハネは新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。・・・『見よ・・・神は自ら人とともにいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったらである。』・・・すると、玉座に座っておられる方が、『見よ、私は万物を新しくする』と言った。」 感想  キリスト教は愛の宗教と言ってしまうと話がヤヤコシくなる。愛を大事にするのはキリスト教だけではないからだ。また、確かにイエス様は無私の愛を説き、生き抜かれたのだが、殉職した人々も沢山いる。  しかし、ヨハネの黙示にあるような人生観はキリスト教の特徴と言えるのではないか。いつもいつもそんなことを考えながら生きているわけではないが、何かというとここに立ち戻って歩み直そうとしているのが信者なワケで、ここに立ち戻らなくして愛し合うことは容易ではない。とくに、気の合わない人を愛しなさいと言われても難しい。ましてや、最近頻発しているとんでもない交通事故で家族を失った人にとっては「厳罰」を望むのは当たり前だ。  信者であっても、同じような状況に直面したら、同じ心境になるに違いない。簡単に心の整理ができるわけではない。しかし、信者らしい直面の仕方はあるし、信者らしい苦悩の仕方があることを忘れてはいけない。黙示録の箇所を何度も何度も反芻しながら懊悩することになる。十字架の懊悩の後で主の復活が来たことを忘れてはならない。  イエス様が十字架から逃げ出さなかったのは、ヨハネが描いた神様の夢を疑わなかったらではないのか、と思う。  やっぱり、ヤヤコシイ!  モズが叫んだ。「ヤヤコシイ!」

「ボクの言うことが信じられないならやっていることを見てくれ。」そんなこと言えるもんじゃない。

イメージ
今日のみことば ヨハネ14,7-14 「・・・私が言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく、私を信じるものは私が行う業を行い、・・・」 感想 言行一致の主だから言えること。凡夫にはとてもじゃないが言えることではない。そうはいっても、イエス様を信じるということは、言行一致を貫くと言うこと。それも、「私が行う業」を行うというのだから、常に、十字架の不条理さを受け入れるということ。ともあれ、凡夫の身としては今日も、「そんな馬鹿な!」と思わず叫びたくなるようなことに直面しない日であることを祈りたい。 昼なお暗い山道が突然開けた
イメージ
今日のみことば ヨハネ14,1-6 「・・・私の父の家には住むところがたくさんある。・・・」 感想  当時の社会環境は現在とさして変わらなかったのではないかと思う。もちろん便利さに関しては雲泥の差があるとしても、不平等、人種差別、貧富の差、権力者たちの横暴。などなど。そんな状況を見ながらイエス様は「だからこそ父の家には誰もが安心して住めるところが沢山あるのだ」と言われたのではないか。  自分の国どころか、自分の家にすら安心できる場所がない子供たちもいる。こんなにも混沌とした現実を見るにつけため息ばかりが出るのだが、神様は父として「何とか一つになれないものか」と心を痛めながら祈っておられるに違いない。  そんな神様の思いを知って、我が家はもちろん、この地上でも「住むところがたくさんある」と実感できる平和な日が来ることを祈るばかりだ。 お茶畑が延々と続き見る者には癒しと平和
イメージ
今日のみことば ヨハネ13,16-20 「私のパンを食べている者が私に逆らった」という聖書の言葉は実現しなければならない。ことの起こる前に今言っておく。ことが起こったとき「私はある」ということをあなた方が信じるようになるためである。 感想 私はある。モーセに示された神の名前「ヤーウェ」のこと。イエス様はご自分のことを「ヤーウェ」と認識された。「生成の神」として「ある」かた。つまり、常に新しく創造する神。受難の時に弟子たちが大混乱に陥ったときが新しい始まりだった。思い通りに行かないときにボヤクのでなく、「始まり」のメッセージを心に持っていたい。 獲物をじっと待ち続けるゴイサギ

誰も暗闇の中に留まることのないように私は光としてきた

イメージ
今日のみことば ヨハネ12,44-50 「・・・私のことばを聞いてそれを守らない者がいても私はその者を裁かない。私は世を裁くためではなく世を救うために来たからである。」 感想 聖書で言うことばは音になって伝わる言葉以前のその人の「思い」。だから、「私の言葉を守らない者」とは「主の思い」を粗末にする者のこと。それが善意であるならなおのこと、 人の思いを 軽んじることは許されない。しかし、主の思いを粗末にしている「離れ信者」(どこかで聞いた昔の信者の言葉)が何と多いことか。それでも、主の裁きの対象ではなく、愛の対象。そこに福音がある。しかし、どこかで裁いている信者が多いこともまた事実。そんな一人でないことを肝に銘じながら今日を過ごしたい。 誰もが歓迎されるホテルのように

この一言に支えられて8年の神学校生活を乗り切った

イメージ
今日のみことば ヨハネ6,9-17 「・・・あなた方が私を選んだのではない。私があなたがを選んだ。・・・」 感想 周りの反対を押し切って入ったものの数年も過ぎた頃から養成者に対して否定的な感情が勝るようになり、悶々とした日々が続くようになった。そんなとき、背中を押したのが冒頭のみことば。選んだイエス様にも責任があるのだから。そんな風に思うと前に進めた。そんな歩みを何度繰り返したことか。そして、5年目の夏休み前に受けた剃髪式が決定的となった。 「司祭を志すものは一歩前に出なさい。」「アドウスム!」(ラテン語。直訳はー私にーで受諾を表す返事)と答えて祭壇に向かって一歩進み出た時の感動は今も忘れない。「これで決まった!」「私が選んだ」というイエス様に賭ける決心がついたときだった。 志布志教会祭壇前のイースターリリー

イエス様の宣教失敗の巻き。理由は「肉と血」を言い過ぎたから。

イメージ
今日のみことば ヨハネ6,60-69 「実にひどい話だ。誰がこんな話を聞いていられよう。」・・・「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。私があなた方に話したことばは霊であり命である。・・・」 感想 「肉は何の役にも立たない!」思わず感嘆符!をつけたくなるような語調だ。この場合の肉は私の肉を食べる者は永遠の命を得る、と言うときの肉ではなく、 この世的な発想 、つまり理屈や知識ことで、 イエス様のことを理解し受け入れるためには無力だと言うこと。どんなことにも「なれかし」と言うマリア様の 虚心坦懐が必要。イエス様自身、十字架の死に至るまで貫いた生き方。そのことが、命(生きること)の十全の意味。いろんなことに亜こだわって自分を閉ざそうとするのは肉の生き方。オープンになることがイエス様の命を生きるための大前提。チャレンジ! セアカスズメ

わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物

イメージ
今日のみことば ヨハネ6,52-59 「・・・はっきり言っておく、人のこと肉を食べ、その血を飲まなければあなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、その血を飲む者は永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はいつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。・・・。」 感想  ボクにとってこの6章は聖書の中でも一番悩ましいところ。今日のところだけでも、何度も読み返しているとイヤになるほどだ。わたしの肉とかわたしの血とか、気持ち悪いったらありゃしない。信者でない友人に聞かせたら何と言うだろうといつも思う。  しかし、私たちは気持ち悪いどころか毎朝何の違和感もなく「わたしの肉と血」を食べ飲んでいる。むしろそれなしには一日が始まらないだけでなく、カトリック信者としてのアイデンティティさえも失ってしまう。それなくしては、司祭としても生きていくことはできない。それを恵みと言わなくて何と言おう。そのことを信じられない友人たちにナントカ知らせたいのだが。生き方の質が変わること間違いないのだが。 地中の虫を引っ張りだしているチドリ

私は生きたパン。これを食べるならば永遠に生きる、とは?

イメージ
今日のみことば ヨハネ6,48-50 「私は命のパンである。あなたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが死んでしまった。これを食べるものは死なない。しかし、これは天から降ってきた生きたパンであり、これを食べるものは死なない。」 感想 マンナは体を養うためのパンだった。私たちが食べる食物も全てそう。イエス様が言われるパンは体を養うには栄養が足りない。イエス様のパンとはミサでいただく小さな丸いパン、つまり御聖体。あの丸い小さなパンに込められた主の思いは全宇宙をも包む御父の愛そのもの。その愛に包まれないものはない。いつも顔を合わさなければならない苦手な人も、さらに紛争国はもちろん 重大 犯罪者も。そんな思いで日々生きるなら、神の子らとしての命を生きていることになる。そんな生き方こそが永遠に生きる命。そんな思いで主の体を受けたい。 川下の千鳥

子どもたちと、ミニトマト、ピーマン、ナス、そしてキュウリ4種類の野菜を植えた

イメージ
農業ミニミニ実習 マイカーでいざ農場?へ 幼稚園から200mほど行ったところに数百坪の駐車場がある。その奥が実習園。クラスごとに野菜が決まっている。どのクラスがどの野菜だったか忘れたが、さくら組(2才と2才未満)の12名も参加。このクラスの子どもたちは本当に小さい。ちゃんと制服を着ているのも可愛い。小さな手で移植鉢から苗を取りだして先生と一緒に掘った穴に植えた、というか納めた。夏休み前には収穫して食べるのだという。なんだか楽しみだ。 一人一人の苗が用意されていた。本格的だ!

「一人も失わない」という力強い主の約束は大きな希望ではあるが・・・

イメージ
今日のみことば ヨハネ6,37・39 「父が私にお与えになる人は皆私のところに来る。私の元に来る人を私は決して追い出さない。・・・私をお遣わしになった方のみこころとは、私にお与えなった人を一人も失わないで・・・」 感想 「決して追い出さない」とか「一人も失わない・・・」というイエス様の力強い約束に疑念を抱かざるを得ない状況がある。教会を長いこと離れたままでついに帰ることもなかった人の最後はどうなる?地獄に行った?あるいは煉獄?もしそうなら、放蕩息子を迎えた父親として紹介された御父の姿は幻?それに十字架上で回心した盗賊に「今日私と一緒に楽園にいる」という約束は気休め?  個人的には、聖書のメッセージを心底信じたい。教会は宗教改革など苦難を乗り越えてくる中で時代に応じた指導を強いられた。そのため、聖書の単純なわかりやすい教えを神学によって複雑にしてしまったのだと思う。  間違いなく、「決して追い出さない」で「一人も失うことのない」御父の愛こそが全て。 近くの川で遊ぶアトリ?(誰か教えて下さい)

飢えることのないパン、渇くことのない水。どこかの国の人々が聞いたら・・・

今日のみことば ヨハネ6,35 私が命のパンである。私の元に来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。 感想  何発ものミサイルを発射して無駄遣いをしている一方では同じ国民が飢えの状態にあるという。そんな人々が、今日のみことばを聞いたら、イエス様の話を聞いた群衆でなくても、「いつもそのパンを私たちにください」(34節)と言うに違いない。  子どもの貧困が問題になっているとは言っても、飢えることのない日本の人々。それでも、サギ電話や凶悪事件の絶えない日本。  そうは言っても、主を信じている自分はどうか。誰かを厳しく判断し、批判がましく眺め、関わるのには消極的。

あなたがたが私を捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ

イメージ
今日のみことば ヨハネ6,22-29 ・・・はっきり言っておく。あなたがたが私を捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。・・・いつまでもなくならないで、永遠の命にいたる食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。・・・ 感想  「 父である神が、人の子を認証されたから」(27節)。父が「認証されたから」。認証というギリシャ語には「疑う余地をなくする、確証する」という強い意味があるらしい。そんな説明を聞くと、イエス様の話がぴんとこなくていぶかしがっている人々を強い口調で説得しておられる様子が伝わってくる。  こうした説得を直接聞くことはできないが、私たちに対する同じ気持ちを聞くことならできる。私たちが地上のことに 強い関心を持っていることは確か。必要以上に心配したり、気を遣ったりしがち。取り越し苦労だ ったこともよくある。  そんな私たちに、イエス様は同じ強い口調で「なんでボクに任してくれないのか!」と言いたなることは多いに違いない。もっと真っ直ぐに主につながっていたい。 二反田川のチドリ

今捕った魚を何匹か持ってきなさい。宣教の実りを持ってきなさいという意味だと解説する人もいるが・・・

イメージ
今日のみことば ヨハネ21、1-14 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今捕った魚を何匹か持ってきなさい」と言われた。 感想  ガリラヤ湖畔での復活の主のご出現の一節だが、あの不思議なすなどりの話は興味深い。イエス様は素手で魚を捕まえ、石をパンに変えて弟子たちの朝食とされた?弟子たちの人数分なかったので魚を追加されたかった?5千人にパンをくださったイエス様なら7,8人の弟子たちのお腹を満たすことなどわけないことではないか?153匹という具体的な数字でヨハネが意図したことは?などなど、聖書学者たちにとっても明快な答えは出せないのだという。  そんな中で、魚を数匹要求されたのは「宣教の実りを要求されたのではないか」という指摘はうがちすぎた解釈のようで個人的にはなじまない。「後で考えてみるとそういうことをイエス様はおっしゃりたかったのかもしれない」ということはあると思う。  単純に、最初の出会いの場でご自分の復活の喜びを共有したかった。家出同然で働き手を失った、家族たちに直接朗報を届けることができる。しかし、すぐまた家族をおいて宣教の旅に出なければならない。しかし、今度は「福音宣教」という目的がはっきりしている。家族もイエス様のメッセージを受け取って信者になっている。神の国のよき知らせが このガリラヤの片田舎から世界に向かって発信されようとしている。その担い手がワシらの息子たち。今は、むしろ誇りにさえ思えるようになった。  勝手な想像だが、これがガリラヤでのご出現の意味だった? 聖堂横のバラの聖母    

イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。

今日のみことば ヨハネ6,20-21「イエスは言われた。『わたしだ。恐れることはない。』そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。 感想  湖の上を歩く主はどんな風だったのだろうと思う。まるでスケート選手のようにすーっと滑るようだったのか。そうではなく、道路を歩くように一歩一歩歩かれたらしい。弟子たちが「幽霊だ!」(マルコ6,49)と大騒ぎしたのは当然だ。  ところで、「わたしだ」はモーセに現れた神のことば「わたしはありてある者ヤーウェ」のギリシャ語版だという。聞き慣れた主の声に安心して「先生、お乗りください」とか何とか言っている内に舟はあっという間に目的地に着いた。  マルコでは、主が舟に乗り込まれたことになっているがヨハネでは「お迎えしなくては!」と思っただけ。いずれにしても、弟子たちと先生との親しい関わりが回復した。それができさえすればいい。弟子たちの足取りも軽くなって目指すところに難なくつくことができた。  私たちにも言えることのように思う。イエス様が一緒だから思い煩うことはない!そんな毎日でありたい。

私たちがイエス様を信じている本当の意味を私たちは知らないのかも

今日のみことば ヨハネ14,12「はっきり言っておく。私を信じる者は、私が行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。私が父の元へ行くからである。」 感想  書き出しの「はっきり言っておく」は正直弱い。昔の訳は「まことにまことに汝らに告ぐ。」イエス様の差し迫った思いが伝わってくる。ラテン語では「アーメン、アーメン・・・」アーメンの原意のイメージは「あの桜島のようにドッシリとして不動」。イエス様が力説しているのは「もっと大きな業を行うようになる。」父のもとに行かれた後で弟子たちは聖霊に満たされた。その結果、イエス様と同じ奇跡を行うようになった。  では、私たちは?奇跡?とんでもない!それはそうだが、今日お祝いしたシスターたちの奉献生活は「白い殉教」とも呼ばれると知った。血は流さないが神様に全てを捧げるという意味だとか。なるほどと思った。  洗礼を受けて信者になった者は誰もが「白い殉教者」と言えるのではないか。日々それなりの戦いがあって、それでもイエス様から離れないで「アーメン」と言って聖体拝領を続けているからだ。信者の皆さんに栄光あれ!

愛の神の怒りが意味するものは御子への愛

イメージ
ヨハネ3,36 「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上に留まる。」 3章の締めくくり。「神の怒りがその上に留まる」で終わっていることに注目したい。つまり「神の怒り即断罪」ではない。「御父は御子を愛して、その手に全てをゆだねられた」(35節)から。「こんなにもつらい思いをして我が子が世を救ってくれたというのに!」御子をないがしろにする人に悔しい怒りがわくのは父として当然? 御父も手も足も出せない

神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された(ヨハネ3,16)

イメージ
ヨハネ3,16-17 ・・・神が御子を世に遣わされたのは世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである(17節)。問題はこの17節。「裁く」には「形をつける」といういい意味があるがここでの裁きの原意は断罪。ヨハネが使う「世」は罪のにおいのするもので日本の語感よりもきつい。そんなヨハネの世は断罪の対象ではなく愛の対象。父である神の愛の深さは放蕩息子を無条件で迎えた父の姿に顕著。だから、どんなときも喜び・希望・感謝。 ノビタキinThailand