私はブドウの木につながって実を結ぶ枝かそれとも
今日のみことば
ヨハネ15,1-8「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。私につながっていながら実を結ばない枝は皆父が取り除かれる。・・・」
感想
果たして私は実を結ぶ枝かそれとも結ばないので切り取られる枝か。そう問うことはあまり有益ではないように思う。第一結論が出そうにない。むしろ、農夫である御父が何とか実を結ぶ枝になるように手入れをして下さる様子をイメージした方が心が安まる。というか、私のために誠実に働いて下さっている父の姿をイメージするならそれだけ御父に恩を感じることができるような気がするからだ。恩を感じるとき、初めて自分の置かれた立場を客観的に見直すことが出るようになるのではないか。自戒の念も生まれる。そうしているうちにに実を結ぶ枝になれるような気がした。農夫の御父を感じたい。
セアカスズメも御父の庇護の元で安らか |