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教会内のごたごたは何故絶えないのか。今朝の第一朗読に学びたい。

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今日のみ言葉 第一朗読 ゼカリヤの預言8・1-8 福音朗読 ルカ9・46-50 感想 教会の中でごたごたが絶えないのは何故だろうと思う。かつて、「熱心な人が異端に走る」だったか、そんな意味の話を聞いたことがある。語弊があるかもしれないが、特別熱心でもなく普通に信仰している人は、熱くならない代わりに、いろんなことに一喜一憂しない。つまり、泰然自若で不動。少なくとも我が指宿教会の信者の大半は後者。それでも、些細なもめ事が絶えないのが世にある教会の印。そう言って慰めてはいるが・・・。 で、そんな現状に我が統治能力のなさを非難されたとしても、今朝のゼカリヤの預言は慰めに満ちている。ゼカリヤは捕囚から帰還した神の民を励まし、神殿の再建を促した、いわゆる神の民の回復期の預言者。だから、今朝の朗読も混乱から立ち直るのは主ご自身の働きであることを強調する。「私は再びシオンに来てエルサレムの真ん中に住まう」(3節)。「・・・こうして、彼らは私の民となり、私は真実と正義に基づいて彼らの神となる」(8節)。 教会内のごたごたは、「主を神としないで自分を神とする」から起こる。「自分を神とする。」これって異端では? 中心は一つ。だから美しい。

「会ってみたい。」ヘロデの思いは本気ではなかった。だから、主に出会えなかった。

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今日のみ言葉 ルカ9・7-9 感想 イエスさまを巡って当時の社会が騒然としていたさまがうかがえる話だ。王の耳にまで届いた噂の主人公が何者なのか確かめたいと思ったが、それほど熱く望んだわけでもなさそう。「ま、どうせろくな者ではないだろうが、会えるなら会ってもいいのだが・・・」という程度ではなかったのか。 ところで、主の祈りの前の招きの言葉は、ボクの場合、「神の国を待ち望みながら主の祈りを・・・」ということにしている。教会、幼稚園とままならないことが色々あり、 世の中は自然災害に犯罪、心安まることはない。そんな現実に囲まれていると、自然上記の招きの言葉が出るようになった。人間の力の限界を感じるので、「あなたの力でお願いします」という思いがあるからだ。 今朝のみ言葉を読んで、毎朝の招きの言葉が、ヘロデのように漠然としたものになっていないか、ふと振り返ることになった。漠然と望んだヘロデの思いは実現しなかったらしいことを重たく受け止めた。 二度目となった鏡池と開聞岳

イエスさまの”母・兄弟”観がいかに広いものかを心に留めたい

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今日のみ言葉 ルカ8・19-21 感想 主の母と兄弟たち。母は分かるが兄弟とは?聖書の時代の人々は、従兄弟も含めて兄弟だった。一族の意味?そういえば、古里奄美で”キョウデ”(兄弟)の意味は広く、まさに、いとこや一族を含む。島外で出会った人が同郷だと分かった時にも使われる。“兄弟みたいなもんだ”という親しみを込めて使われる。 ところで、「私の母、私の兄弟とは神の言葉を聞いて行う人たちのこと」。神の言葉とは神の思い。神の思いを聞くとは“良心の声を聞く”ということになる。従って、洗礼を受けていない人でも神の言葉を聞くことができるわけで、そうした人もみんな“私の母、私の兄弟”。イエスさまの”母・兄弟”観がいかに広いものかを心に留めたい。 最年少は2才児。なすことすべてがかわいい!

ツミビトマタイの招待を受けた主のようにはできないが、せめて罪を犯した人の救いを祈ることはできる

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今日のみ言葉 マタイ9・9-13 感想 今日はマタイの祝日。使徒であり福音記者。徴税人時代イエスさまと出会い、イエスさまを宴会に招待したときの話。多くの「徴税人や罪人」が招かれていた。案の定、バリバリのユダヤ人であるファリサイ派の人々がケチをつけた。徴税人は罪人の範疇に入れられていたので、彼らにしてみれば、今評判の「先生」が「罪の臭いプンプンの人々と会食をしたりするのは許されないことではないのか?」といぶかった。それはそうだ。 イエスさまでなくても、小教区の主任司祭が、町で評判の悪い人々(指宿にはいないと思うが)の宴会に招かれて楽しそうにしているのを見たら、「アンタたちの神父さん・・・」と眉をひそめるに違いない。そのとき、イエスさまのように泰然自若として「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(13節)などと言えるわけがない。 で、今日のみ言葉から学ぶことは、どんなにひどい罪を犯した人に対しても、まず厳しい裁きを願うのではなく、弱さ故のことなので、被害者はもちろんのこと、加害者の救いも祈るべきことではないのか。 「本当の父親でもないのに」という連れ子をあやめた許しがたいオトコに対しても。 MEアジア会議のハッピーアワー

12使徒団を支えてご婦人たちのパワーにならって私たちもお隣ご近所に奉仕?

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今日のみ言葉 ルカ8・1-3 感想 今日は、韓国初の司祭の聖アンドレア金司祭と同士殉教者の記念日。今朝のミサは日韓和解のためにささげた。祈り続けたい。 ところで、福音は、12名のほかに、ガリラヤから同行した婦人会のメンバーが使徒団に奉仕していたという話。前にも書いたが、この婦人たちのリストにマリア様の名はない。きっと、働き手を失った貧しい家族たちを訪問したりして過ごしていたに違いない。 で、私たちも一番身近な家族やお隣ご近所の皆さんに主からのシャロームを分かち合う日々でありたい。 機上からの夕日

主の心はブルー。主に寄り添って主の心を味わう日にしたい

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今日のみ言葉 ルカ7・31-35 感想 今日は、イエス様の嘆き節。お隣韓国教会は相変わらず大元気だというのに!教皇来日も控えているが、前教皇が訪韓された後の韓国は信者が急増したという。日本の場合は、まったく変化はなかった。今回も教会だけでなく日本の社会にも変化は期待できそうにない。まさに、今日の福音にあるように、”笛吹けど踊らず”。日本の人々は「何に例えたらよいか。彼らは何に似ているか」(32節)。 そんな社会の中にあって黙々と信仰する信者たちの存在は大きい。また、そんな信者たちはイエス様の慰めでもある。今日も主に寄り添って主の心を味わいながら過ごしたい。 園庭の片隅で満開の萩

丸っこいので坊主頭のイメージなので坊主バナかと思いきや

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今日のみ言葉 ルカ7・11-17 感想 ガリラヤ湖の南にあるナインという町で、一人息子を失ったやもめとの遭遇はイエス様の心を激しく揺さぶったに違いない。働き手を失ったやもめにどれほど悲惨な生活が待っているかご存じだったからだ。もう一つは、まったくの憶測だが、かつて、弟子たちを募集?されたときのことがよみがえったに違いない。ペトロとアンデレという二人もの働き手を同時に失った家族が気にならなかったと言えばうそになる。ことに、ぺテロとアンデレという兄弟の両親と一人息子を失って悲嘆にくれるやもめが重なって見えたに違いない。 今日は、そんな人間味に溢れたいイエス様を思いながら病気のご主人を抱えた二人の先生のために祈りたい。 幼稚園二階のベランダで満開のボーズバナ

失敗のようにも見える主の選びの不思議さに慰めと希望

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今日のみ言葉 ルカ6・12-19:12名の選出 感想 徹夜で祈った結果が、ペトロを筆頭に12使徒と呼ばれる弟子たち。結末を知る者にとっては、イエスさまには悪いが、「リーダーなき人選」という感じがする。しかし、無学のペトロが選ばれたことはともかくとして、師を裏切ることになったユダの選出はやはり謎だ。そうは言っても、ペトロを含めた全員が師を置き去りにして逃げたのだから似たようなものだが、立ち戻ってやり直した点はユダと大きく違う。 ともあれ、この人選には慰めらることは多い。鹿児島教区に来てもらったのはいいが、小教区に送ったら批判続出。正直、「やはり間違っていたのか」と思ったこともある。しかし、世界最大規模を誇る教会は12使徒の人選から始まったわけで、それを思うと、教区内の人選のことなど 大した問題ではない、と思えてくる。少なくとも、崩壊の始まりではない。信者たちもそんな気持になってくれたらいいのだが。 自分自身の至らなさを見せつけられた時も12使徒の人選を思うと立ち直れるから不思議だ。どんなことにしろ、ミサのホスチアと同じで、神様の手の中で「キリストのからだ」に変えられるように、自分の弱さも同じ過程の中にあることは心強い。今日は、日本205福音者殉教者の記念日。彼らの信仰に倣いたい。 韓国MEアジア会議会場の庭先で(ヒタキの仲間?)