イエス様にイライラするのは不信の始まり?それとも単なる不満?
今日のみことば
ヨハネ14,21-26 「…イスカリオテでない方のユダが『主よ、私たちには御自分を表そうとなさるのに世にはそうなさらないのはなぜでしょうか』」イエスは答えて言われた。『私を愛する人は私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私はその人のところに行き一緒に住む。…父が私の名によってお遣わしになる聖霊があなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。』」
感想
ユダはこの答えを聞いて「なるほど」と思っただろうか。ますます「???」ではなかったのか。ボクの場合はイライラするだけだ。どうしてスッと正解をくださらないのだろうかと思う。言葉が多い割には、いまいちはっきりしないので「それで?」とのモヤモヤは残る。
なんとか、手掛かりはないものかと註解書を開いた。「ことばは世にあった。世はことばによって成ったが、世はことばを認めなかった」(ヨハネ1,10)。「だから、私を認めなかった人々には無理に教えたりはしないのだ」ということ?
「韓国教会は発展するのに、日本はどうして?」みたいな疑問がユダにもあったことは興味深いが、いずれにしても、「『父が私の名によってお遣わしになる聖霊があなたがたにすべてのことを教え』てくださるからそのうち分かるよ」というのが答え?
なんでも答えを引き出そうとしなくてもいい。神秘は神秘として取っておけばいい。ここらで手を打つか。