洗礼を受けて神のものになったということには特別の意味がある

今日のみことば

マタイ11,20-24「イエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので叱り始めた。『コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、チルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めたに違いない。・・・しかし言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。』」

感想

 「一般の人よりも信者に厳しいのがイエス様。」今日のみことばからくみ取りたいメッセージだ。信者は世の中に生きているが、世の人々が知らないイエス様の価値観を知っているからだ。もっとも、アタマで分かっているだけの人がいることも確か。「ヘンなオジサンだったり、ヘンなおばさん」だったりすることがあるからだ。たしかに、我が道を行くのはいいが、信者になってイエス様の知り合いになったということがどんなことなのか真剣に考えてほしいと思うことは多い。
 ついでに言えば、「信者よりも司祭に厳しいのがイエス様。」ということも本当。なぜか、家族を養う義務から解放されている分、自由。それだけに、ミサと祈りに専念することが求めらえているからだ。
 そうは言っても、「司祭にやさしいのが司教。」ある司教さんの忠告だ。その点、ボクは逆だった。つらい思いをした司祭は多いに違いない。もっと優しく関わればよかったかもしれないとは思うのだが。
 ともあれ、今日も主が称えられますように。
鏡池 無風時は開聞岳が湖面に映えるという

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