「信仰のウデは勉強では上がらない。」モーセが教えているではないか。

今日のみことば

申命記30・10-14「モーセは民に言った。あなたは、あなたの神、主のみ御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に立ち返りなさい。
 私が今日あなたに命じるこの戒めは、難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。それは、天にあるものではないから、『誰かが天に昇り、私たちのためにそれを撮ってきて聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うには及ばない。・・・御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだからそれを行うことがでる。」

感想

 表題を文字通り理解してもらっては困るのだが、今日の本文をボクが読むとこうなる。ミサ中鉛筆を持つ信者がいたり、ミサの本を見ながらあずかる人もいたりする。筆記したり、本を手にする行為は知的活動ではあっても祈りではない。ミサは勉強の時ではない。司祭と共に捧げられる祈りだと認識している。説教はしっかり聞いてもらえたら、忘れてもいい。一生懸命聞くことを勧めたい。心が耕されるからだ。勉強は頭の体操であって心を耕す力はないことを忘れてはならない。
 聞くと言えば、あの「聖書と典礼」が普及している日本では聞くことよりも一緒に読むことが普通になっている。ミサで朗読される御言葉は聞く対象であって読み物ではない。まず、この聞く練習から始めて欲しいと思う。何回「読むミサ」にあずかってもウデは上がらない。コツを外した練習は労多くして実りは少ない。
 申命記はモーセの遺言だと言われる。「勉強すればもっとましな信者になれるかもしれない」と思うのは妄想。もっとましな信者になりたければ、ミサ参加の質を高めようとするだけで十分。今日のみことばの後半でモーセが言いたかったことを味わって欲しい。あ、セッキョウになった。
誕生会で園児たちが奉納した

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