「私が求めるのは憐れみであって、いけにえではない」という主の言葉の真意は?

今日のみことば

マタイ12・1-8「ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイはの人々がこれを見て、イエスに、『御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている』と言った。そこで、イエスは言われた。『ダビデが自分も供の者たちも空腹だった時に何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。・・・もし、”私が求めるのは憐れみであっていけにえではない”という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちを咎めなかったであろう。』」

感想

 ”いけにえではなく憐れみを“、「新しい時代にふさわしい目を持たなければならない」という強い思いがにじむ言葉だ。いけにえに代表されるさまざまな掟はイエス様の目から見ればもはや”こだわり”でしかない。エジプト脱出後すでに1200年も過ぎた当時、掟はあのエジプト時代をほうふつとさせるほどに人々を不自由にしていると感じたのがイエス様。この視点は、現代の信者にとってもいわば信仰生活の黄金律だ。
 いけにえが言わんとする掟は形を変えて私たちを縛っている。教会内の習慣、伝統にはじまり、個人的にも身についた習慣や生活様式などは容易に手放せるものではない。しかし、絶対的なものでないことも分かっている。
 こうしたことが、自分をも周りの人をも不自由にしていると気が付くのは難しい。だから、人間関係に亀裂を生じることさえある。
 形ではなく、心の姿が神様につながっていることが何よりも肝要。そのことを知るのが信仰であり祈り。これもまた、難しい。だから、孤独の祈りで神様につながる練習は欠かせない。繰り返すことになるが、勉強でも間に合わないことを肝に銘じたい。
マリア様横に咲いているが名称不詳

 

人気の記事

指宿教会管理者の郡山です。よろしくお願いします!

毎日のミサをFacebookライブ配信。Ken's Pageで追いかけ配信しています

信仰の質を高めるコツ----大文字の私と小文字の私を使い分ける