「恐れるな」と繰り返されて頭では分かっても、実際はチョウ難しい

今日のみことば

マタイ10・24-33「・・・人々を恐れてはならない。覆われているもので表されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはないからである。・・・体は殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。・・・あなた方の髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、沢山のスズメよりもはるかに勝っている。
 だから、誰でも人々の前で自分を私の仲間であると言い表すものは、私も父の前でその人を私の中であると言い表す。しかし、人々の前で私を知らないという者は、私も天の父の前で、その人を知らないという。」

感想

 「・・・だから、恐れるな」と何回言われても、「ハイ分かりました」というのがボクの反応。つまり深刻ではない。しかし、最後の「だから・・・」はそうではなかった。今日のみことばの結論のように響いたからだ。さてどういうことか。
 もちろん、「私はイエスさまの仲間です」と言ったりはしないし、まして、「イエスさまなんか知りません」などと口にしたことはない。しかしだ、ことばではなくても、自分の不親切な言葉遣いや人を無視したりすることで、実質的には「知らない」と言ったこも同然だと言われたら、数知れない。まさに、「行いの伴わない信仰は死んだもの」というヤコブの叱責にシュンだ。
 派遣された使徒たちの合い言葉「平和があるように」を粗末にすることのない一日にしたい。
平和行進?

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