信者になった本当の意味を悟るのはなかなか難しい。なぜか?


今日のみことば


ヨハネ2011-⒙「マリアは、墓のそばに立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあったところに、白い衣を着た二人の天使が見えた。・・・「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「私の主が取り去られました。どこに置かれているのか私にはわかりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。・・・イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボ二」と言った。「先生」と言う意味である。イエスは言われた。「私に縋りつくのはよしなさい。まだ、父のもとへ上っていないのだから。私の兄弟たちのところへ行ってこう言いなさい。“私の父であり、あなた方の父である方、また、私の神でありあなた方の神である方のところへ私は上る”と。マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「私は主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを継げた。

感想

埋葬された主が突然目の前に現れたのだから、まさに天にも昇る思いで「先生!」と声を上げて駆け寄りハグしたくなったのは当然だ。しかし、主の反応は違っていた。むしろ、冷静に指示を出された。その指示とは、ほかでもない、「主は復活された」というビッグニュースを弟子たちに知らせること。懐かしさに浸っている暇はない。ハッと我に返ったマリアは大急ぎで思いがけないミッションに急いだ。

私たちの信仰は同じところに留まることを許さない。何はともあれ、信者になったのだからじっとしていないで復活の証人になることが求められている。

希望の人、喜びの人となること。答えは簡単でもなかなか…。
二反田川のアオサギ

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