日本人の不得意な?「ことば」こそ、実は、日本人信者にはむしろ有利となりうる

今日のみ言葉

ルカ18・35-43
「…『何をしてほしいのか』「目が見えるようになりたいのです。」…」

感想

「日本人は言葉の民ではない」とつくづく思う。お医者さんは別だと思うが、全盲の人が、「憐れんでください」といってそばに連れてこられた時、日本人なら、「どうしてほしいの?」と聞くことはないと思う。「ああ、かわいそうに。目が見えるようになりたいのだね」と察してあげるはずだ。

そうはいっても、「はじめに言葉があった」(ヨハネ1・1)のだから、み言葉そのものの主からすれば自然なことではあるが。実は、ここが、問題。日本の文化とは対極にあるように思うからだ。言葉と思いやり。しかし、確かめるためには言葉が必要。だが、日本人はそれほど神経質ではない。だから、”小さな親切大きなお世話”にもなったりするのだが、それはそれとして、「人がいいから」だったり「良かれと思ってしたのだから」ということで終わる。

しかし、言葉は”寸鉄人を刺す”の通り、人を傷つけて取り返しのつかない事態に発展することもある。そんな危うい感じのする”ことば”が信者にとっては”いのちのことば”。実は、日本人であることの利点は、「思いやって生み出される言葉」こそが”いのちのことば”となって人々の心に届く。

「思いやりの後で生み出される言葉。」日本人信者の強みではないか、と気がついた。
七五三の日、子どもたちがささげた感謝のしるし



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