権威ある者としてお教えになったイエスと律法学者たちの権威との違いは何か

今日のみ言葉

マルコ1.21-28
「イエスは、安息日にカファルナウムの会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。・・・」

感想

「権威ある者として」教えるのと、「権威ある者のように」教えるのとでは大きな違いがある。前者は、人々を黙らせるだけの力があるが、一方は見せかけに過ぎない。「本当はそうでないが・・・」ということが前提になっているからだ。

「あなた方は、自分の信仰を自分の言葉で語るようにしなさい。」神学生時代、教義学の司祭が語ったことを忘れない。教理を単に説明するのではなく、自分の言葉にして説く。恵みとは何か、ミサとは何か、など、そうした事柄を自分の言葉で語るとすればどうなるか。教科書だけの勉強では足りない。やはり、一人でする祈りや黙想が必要になる。

それだけではない。信仰の眼で物事を眺める練習も求められる。早朝のミサに行く途中の道路脇のドブにバラのつぼみが落ちているのを目にした。帰りにもう1見たとき、つぼみが開きかけていた。「神様が下さった命はドブに落ちても開こうとする!」40年前の小教区での素朴なおばあちゃんのお話も忘れない。

今日もそんな信仰の言葉を紡ぐことができる日となるように。
魚見岳より知林ケ島を臨む




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