イエスとファリサイ派や律法学者たちとの違いは一言で言えば自由人と不自由人

今日のみ言葉

マルコ2・13-17
「・・・『どうして彼は、徴税人や罪びとと一緒に食事をするのか』の…『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。…』・・・」

感想

イエスの自由さと指導層の頑迷さが最後までぶつかることで話は進む。指導層の悲劇は、自分たちも罪びとの一人で、つまり病人の一人であることに気づこうとしないところだ。もっと言えば、自分たちの正義が単なるこだわりに過ぎないことを認めないがゆえに真実が見えてこない。同じ現象は私たちにも起こっていることに気づきたい。罪びとという自覚は誰にもあるが、譲れないこだわり、自分流を貫くというこだわり、常識というこだわりもある。こうしたこだわりから完全に解き放たれているのがイエス。

こうしたこだわりは、別の言葉で言えばクセ。クセは第二の本姓と言われるほど身についたものなので改めるのは容易ではない。しかし、「人の邪魔になっている」と知らされても改めようとしないならそれこそが罪。そのことに気づいて新たになろうとするときまともな信者への道が開ける。心したい。
やっと揖宿のメジロと出会えた

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