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1月, 2020の投稿を表示しています

土はひとりでに実を結ばせるのであり、どうしてそうなるのか人は知らない

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今日のみ言葉 マルコ4.26-34 「神の国は次のようなものである。人が土に種をまいて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して 成長するが、どうしてそうなるのかその人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、・・・それはからし種のようなものである。・・・。」 感想 ザビエル教会の聖書の庭にはからし種の木が植えてある。黄色い可憐な花が年中咲く。花の後には種ができるが、その種は微少なもので、数知れない。しかし、種をまいたからといって発芽するわけではない。ところが、いつの間にか、教区本部棟の屋上の片隅で発芽したり、中には、電車通りを超えた向こうの空き地で芽を出したりすることもあった。まさに、「どうしてそうなるのか」不思議な木だ。 今日のたとえ話は、宣教の実りがなかなか見える形で現われない日本の教会のために語られているよう。もしかして、宣教していないのかもしれないが。それはともかく、欧米と同じで、教会はしぼんでいくばかり、というのは本当。しかし、福音の種がまかれているのも事実だし、どこかで発芽しているのも事実。「10年後はどうなるか」と危惧されている我が指宿教会も他人ごとではないが。 それでも、自分の中に播かれた福音の種が出会った人々の中に飛んで行って思いがけない時に発芽することを楽しみに待ちたい。 緋寒桜inフラワーパーク200127

あなたがたは、自分の量る秤で量り与えられるとは?

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今日のみ言葉 マルコ4.21-25 「・・・何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、さらにたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまで取り上げられる。」 感想 子供ころ、しょうゆもお酒も量り売りだった。隣村の店の伯父さんは若いころ大学の野球部にいたと聞いていた。店の番をしながら野球の実況放送を聴くのが楽しみで、焼酎をマスに注ぎながら実況に夢中になるあまり、よく注ぎ過ぎるというので評判だった。 註解書によると、量り目をよくして売る人の善意が問われているということだった。なるほど、あの野球好きの伯父さんでなくても、寛大でけちけちしない太っ腹の人だったら、誰でも買いに行きたくなる。みんなが買いに行くので、30倍、60倍、いや100倍にもなって繁盛することになる。逆に、ケチな人のところにはいきたいとは思わない。持っているものまでも失い、結局商売あがったりということになる。 個人的な思い込みで註解書の意図に反しているかもしれないが、信仰ではなく、善意が問われているというところに新鮮なものを感じた。かつて、最高の愛の業は「福音を上げること」つまり、その人に福音という宝を手にしてもらうことが、一番の愛の業だと聞いたことがある。最高の善意と言ってもいいかもしれない。善意は愛の心そのもの。信仰だ、愛だという前に、みんなの心に善意が増すことが先? 散歩中の目の前によく表れて心和ませるジョウビタキ

信仰生活は連想ゲーム感覚で腕を上げることできる

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今日のみ言葉 マルコ3.22-30 「・・・人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜するものは永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。・・・。」 感想 「聖霊を冒涜する」というのは、イエス様のことを冒涜するという意味らしいが、私たちには経験のないことなのでどう理解したらいいか困る。ただ、聖霊、息吹き、空気は同じ言葉が使われているらしい。そうすると、命の息を吹きかけられて人は生きる者となった(創2‣7)とあるので、私たちも神の息吹きを受けて生きた信仰者になる。 自分にこだわるひと、人の言うことに耳を貸そうとしない人は要注意ということになる。つまり、気ままに吹く風のように、聖霊はつかみどころがないような動きをするから、自分にこだわっていたら聖霊の働きを取り逃す可能性が高い。すると、信仰者として空回りすることになる。 信仰生活とは、連想ゲームみたいなものなので、 今日も、心の耳と心の目をしっかり開き、信仰の嗅覚を敏感にしていたい。 どこに、何のため?

洗礼を受けて信者になった人は特別の意味で神の子と呼ばれ新しい言葉を話す

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聖パウロの回心 祝日 今日のみ言葉 マルコ16.15-18 「全世界に行って、すべての造られたものに福音を述べ伝えなさい。・・・彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」 感想 当時の弟子たちは、 書かれてあるように、 蛇をつかんだり毒を飲んだりしたかどうか分からないが、少なくとも病人を癒やしたりという奇跡を行った。同じ福音宣教に派遣されている私たちにはまねのできないことなのでうらやましい限りだ。 しかし、サウロが回心してこれまでと違う人間になって、つまり、迫害者から宣教者に変身して、これまでと違う新しい言葉を語り出したように、私たちも洗礼によって新しい人になったのだから、新しい言葉を語るようになった。それでも、パウロと違うのは、まだ古い自分を脱ぎ捨てていないこと。これも仕方のないことだが、新しい言葉は、福音の心から生まれるので、自分の言葉、立ち振る舞い、人との関わりは福音の心にかなっているか常に問われていることを忘れてはならない。 今日も、古い自分を身にまといながら、それでも!新しい福音の心を生きていけますように。 お隣から寄進されたラン

イエスは、これと思う人々を呼び寄せ、ご自分の側に置かれた

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聖フランシスコ・サレジオ司教教会博士 記念日 今日のみ言葉 マルコ3.13-19 「イエスが、山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らは側に集まってきた。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分の側に置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。・・・。」 感想 今日の箇所は、いわば、「イエス親衛隊」の創設を記していると言える。いつもイエスの側にいて、行動を共にする親衛隊。イエスが親しく語ると耳を傾け、うなづき、そのように生きようとする忠実な親衛隊。宣教するイエスの心の支えとなる親衛隊。もちろん、イエスの心の支えは御父であるが 、こうして、教会の原型が造られた。そういう意味で、教会とは、常にイエスの側にいる存在。志を一つにして歩む親衛隊。 私たちもそのメンバーの一人。イエスの夢を共有する忠実な親衛隊。少し勇ましいが、今日もそんな気概のうちに歩みたい。 親衛隊の心は周りを照らす

新しい葡萄酒は新しい革袋に。そうでないと葡萄酒も革袋もダメになる

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今日のみ言葉 マルコ2.18-22 「・・・誰も織たての布から布切れを、古い服に継ぎを当てたりはしない。 そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また誰も、新しい葡萄酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、葡萄酒は革袋を破り、葡萄酒も革袋もだめになる。新しい葡萄酒は新しい革袋に入れるものだ。」 感想 コウタロウ君は2歳になったばかり。さくら組さんの新しい仲間。当初は、何時間も泣いてばかり。 今でも時折泣くことがある。あんな小さな子でも適応していく力はスゴイ。人が新しい環境に慣れていくときの原点を見るようで感動的ですらある。 新しい葡萄酒は新らしい革袋に。私たちの信仰の姿は、新しい葡萄酒を入れてもらったものの、あちこちから漏れ出していることに気がつかないでいるかのよう。 しかも、どこら漏れているのかも分からないのが悔しい。 気づくためのヒントがあるとすれば、人から注意されたとき、素直に非を認めることは大原則かと思う。言い訳は最大のテキ。ダカラ、注意されることがなければ希望もない。 イエス様にとって、御父の意思は新しい葡萄酒。容易ではなかったが、「あなたに委ねます」と言われたとき、新しい命への道を開かれたことを忘れてはならない。こだわりからの解放こそ新しい葡萄酒にふさわしい。今日も新しい革袋への一歩となるように。 一日が終わり新しい一日への道を急ぐ

イエスとファリサイ派や律法学者たちとの違いは一言で言えば自由人と不自由人

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今日のみ言葉 マルコ2・13-17 「・・・『どうして彼は、徴税人や罪びとと一緒に食事をするのか』の…『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。…』・・・」 感想 イエスの自由さと指導層の頑迷さが最後までぶつかることで話は進む。指導層の悲劇は、自分たちも罪びとの一人で、つまり病人の一人であることに気づこうとしないところだ。もっと言えば、自分たちの正義が単なるこだわりに過ぎないことを認めないがゆえに真実が見えてこない。同じ現象は私たちにも起こっていることに気づきたい。罪びとという自覚は誰にもあるが、譲れないこだわり、自分流を貫くというこだわり、常識というこだわりもある。こうしたこだわりから完全に解き放たれているのがイエス。 こうしたこだわりは、別の言葉で言えばクセ。クセは第二の本姓と言われるほど身についたものなので改めるのは容易ではない。しかし、「人の邪魔になっている」と知らされても改めようとしないならそれこそが罪。そのことに気づいて新たになろうとするときまともな信者への道が開ける。心したい。 やっと揖宿のメジロと出会えた

律法学者とは主義主張にこだわる人たちで、結局ただの人をやっているだけ

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聖アントニオ修道院長 記念日 今日のみ言葉 マルコ2.1-12 「4人の男が中風の人を運んできた。『子よあなたの罪は許される』と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、『この人は何故こういうことを口にするのか。神を冒涜している。神尾1人の他に、一体誰が、罪を許すことができるだろうか。』人々はみな驚き、『このようなことは、一まで見たことがない』と言って、神を賛美した。 感想 指導者たちと庶民の反応の違いに注目したい。知的に考える人と、素直に驚き「神を賛美する」人とは天と地の差がある。天は主とで会うために主の道を歩むことで、地は主を認めようとしない自分にこだわる姿。その違いは、人生の質そのものの違いを生じる。今日もすべてに心を開き、こだわりから解放されて主への道を歩むものでありたい。 完成間近のラバン・ ベトナム の大聖堂

癒されてきれいな体になった喜びは分かるが、イエスの活動の邪魔をした

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今日のみ言葉 マルコ1.40-45 「さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、『御心ならば、私を清くすることがおできになります』と言った。イエスが深く憐れんで、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。『誰にも話さないように気をつけなさい。…』・・・しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それでイエスはもはや公然と町に入ることができず、・・・。」 感想 この人の喜びの大きさは想像に余りある。神学生の頃、敬愛園で会った患者さんのすさまじかったこと。初めて見る病のひどさにショックを受けたものだ。もっとも今では、完治しているが。今朝の人は、皮膚も顔も元通りに戻った我が身を見て驚喜したに違いない。イエス様の注意など耳に入らないほどだったもようだ。おかげで、イエス様の宣教活動に支障をきたすこととなった。 体はきれいになったが、イエス様とつながったかは不明。「祭司に見せなさい。祭司の証明によってはじめて社会復帰も可能となるから」というイエス様の心遣いも無駄になった?これは悲劇。もっとも、後で祭司に見せに行くことになったとは思うが。ともあれ、この人も、イエス様の宣教活動を邪魔することになったことに気付くべきだったがそれどころではなかったのだから仕方ない。 私たちの場合も、心したいところだ。誰かの迷惑になっていると気がつかない限り自分の行為や言葉を改めることは難しい。ネットの書き込みで人権を侵害された女性が、誹謗中傷を繰り返す投稿者を3年余りもかけてついに特定した。法律の制定に向けて運動を起こしていると、今朝のニュースで知った。悪意は排除されなければならない。 小教区内の清めも必要だと思うことはある。それが何かは当事者も分からないのが悩ましい。「 御心ならば、私を清くすることがおできになります 。」 菜の花マラソンに花を添えて使命を終えた

イエスの宣教活動を邪魔する唯一の力は悪霊。その悪霊とは?

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今日のみ言葉 マルコ1.29-39 「・・・夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取り憑かれたものをみな、イエスのもとに連れてきた。・・・イエスは、・・・多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。・・・そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。」 感想 悪霊にとりつかれた人を見たことはないが、敢えて言えば、イエスの邪魔をする人は悪霊に取り憑かれている人ということになる。もっと一般的に言えば、人の邪魔をする人も悪霊に取り憑かれていると言える。たとえ善意だとしても相手が邪魔をされていると感じたら追い出しの対象になるから気をつけたい。 「サタン、引き下がれ。あなたは私を邪魔する者。神のことを思わず、人間のことを持っている。」突然の激しい言葉にペトロは動転したに違いない。迷惑をかけない人はいないとしても、「お願いだから・・・」と懇願されても、「これが自分のやり方だから」と譲らないとき、「あなたは私たちの邪魔をしている」ことになる。 そんなトンガッタ人が小教区にいるのは珍しくない。しかし、「サタン引き下がれ」とは誰も言えない。悔しいが、結局は、被害を被っているミンナの忍耐、愛が試されている。 それでも日は上る

権威ある者としてお教えになったイエスと律法学者たちの権威との違いは何か

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今日のみ言葉 マルコ1.21-28 「イエスは、安息日にカファルナウムの会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。・・・」 感想 「権威ある者として」教えるのと、「権威ある者のように」教えるのとでは大きな違いがある。前者は、人々を黙らせるだけの力があるが、一方は見せかけに過ぎない。「本当はそうでないが・・・」ということが前提になっているからだ。 「あなた方は、自分の信仰を自分の言葉で語るようにしなさい。」神学生時代、教義学の司祭が語ったことを忘れない。教理を単に説明するのではなく、自分の言葉にして説く。恵みとは何か、ミサとは何か、など、そうした事柄を自分の言葉で語るとすればどうなるか。教科書だけの勉強では足りない。やはり、一人でする祈りや黙想が必要になる。 それだけではない。信仰の眼で物事を眺める練習も求められる。早朝のミサに行く途中の道路脇のドブにバラのつぼみが落ちているのを目にした。帰りにもう1見たとき、つぼみが開きかけていた。「神様が下さった命はドブに落ちても開こうとする!」40年前の小教区での素朴なおばあちゃんのお話も忘れない。 今日もそんな信仰の言葉を紡ぐことができる日となるように。 魚見岳より知林ケ島を臨む

網を打ち、網の手入れをしている兄弟を呼ばれた主の真意は何だったのか

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今日のみ言葉 マルコ1.14-20 「・・・イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師だった。イエスは『私についてきなさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。・・・」 感想 仕事中の二人を呼ばれた。いや、同じ漁師仲間のヤコブとヨハネの兄弟が舟で網の手入れをしているにもかかわらず、彼らをも呼ばれた。もっと驚くのは、この4人が、網を捨て、父親と雇い人を置いてすぐについて行ったことだ。働き手を失った父親や家族は引き留めたりはしなかったのだろうか。 「何事にも時がある」(コヘレト3.1)というみ言葉を知っていたので、素直に従ったのか。それも確証はない。いずれにしても、思い出したのは「啐啄そったく同時」。啐は雛が殻を破って出ようとして鳴く声で啄は親鳥が外か突っつく音。イエス様の招きの言葉と彼らの思いが一つになって新たな世界に飛び立つことになった。これが召し出しの神秘。 今日から典礼は年間。イエス様の日常生活をなぞるように進む。御父と御子の啐啄同時。御子と私たちの 啐啄同時。さらに、私たちと身近な人々との 啐啄同時。これが、信者の日常生活でめざして欲しい、主からの呼びかけ。 ワット神父さんの実家の庭先で

群衆を避けて一人祈られた主は今も私たちのために祈っておられる

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降誕節金曜日 1月10日 今日のみ言葉 ルカ5.12-16 「・・・全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、『主よ、御心ならば、私を清くすることがおできになります』と願った。・・・『よろしい。清くなれ』・・・大勢の群衆が、・・・集まってきた。だが、イエスは人里離れたところに退いて祈っておられた。」 感想 普通の人間関係を絶たれていた人が、晴れてみんなの仲間入りができる歴史的な出来事を一緒に喜ぶこともなく、そっと身をひく主の思いを知りたいと思う。なんとなく嫌みな感じがするからだ。ボクなら、「良かった、良かった」と喜び合うところだ。 「だれにも話してはいけない」と口止めされた理由もよく分からないが、イエス様のミッションは、病を癒やすという地上的なものが第一ではなく、あくまで、回心。私たちが、神の子としてのまっとうな歩みを日々積み重ねることで地上に平和をもたらすために送られた。 病から解放されたことで、その人の人生が180度変わったとしても、回心して神に立ち返ることなしに主のミッションは完結しない。癒やされた人のため、また我も我もと押し寄せる大勢の群衆がそのことに気づいてくれるように祈らざるを得なかった、ということか。そんな主の思いは今も変わらない。祈って下さる主と共に今日も歩みたい。 タイの空港で見かけた胡蝶蘭

こだわりから解放され、想像力を働かせ、自由闊達な信者への道

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降誕節木曜日 1月9日 今日のみ言葉 ルカ4・14-22a 「その時イエスは、”霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。…『…主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みを告げるためである。 』・・・。」 感想 イザヤが言う「捕らわれている人」は、牢にいる人のことを言っているのだと思うが、実は、私たちのこと。私たちをとらえているのは、こだわり、思い込み、偏見などなど。それらからの解放。「目の見えない人」も私たちのこと。空気が読めない、周りの迷惑が分からない。忖度は悪い意味に使われているが、「推測する」ことなので、想像力の問題。想像力がないと思いやることもできないので、捕らわれた状態が続くので深刻。人をイライラさせるのは悪。 「圧迫されている人」も私たち。見通しを立てることができなくて四苦八苦することもある。自分を窮屈にしているのは、他人ではなく自分自身。自分にこだわっていたら違いを受け入れることはできない。 クリスマスを祝い、新年を迎えて、改めて、死と復活の神秘を生きる信者として新しい自分になることを新年の誓いとしたい。 ラオスからの夜明け

イエスが舟に乗り込まれると嵐は静まり、弟子たちホッと一安心

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降誕節水曜日 2020/1/8 今日のみ言葉 マルコ6・45-52 感想 ガリラヤ地方の人々にとってガリラヤ湖は命をはぐくむ 豊かな漁場。しかし、いったん荒れると豹変するから怖い。当時の舟が復元されたことで、今では、動力船が観光客を運んでる。1997年秋、湖北のカファルナウムから西のティベリアまでを例の舟で渡った時のことだ。出港して間もなく、突然、激しい嵐に見舞われ、船は文字通り木の葉のように波に飲まれ、沈没するのではないかと恐れた。乗客は70名ほどだったが、中には、「聖書の話しが現実になった!」と興奮する人も現れたほどだった。確かに、弟子たちの恐怖を身をもって味わった貴重な体験だった。 私たちの人生でも同様のことは起こる。自分にこだわっているとパニックになったり、見通しが立たなくなったり心が波立つことはまれではない。司祭の頃から、青少年担当司教として話を聞く機会が多かった故浜尾司教様は、「福音の色眼鏡で見る」が信条だった。自分の思い込みではなく、つまり、自分の色眼鏡ではなくイエス様の眼鏡で見る練習が必要ということ。「信仰も練習が必要」というのはボクの口癖。福音の色眼鏡で見る練習。腕を上げたいと思う。 タイの大地に沈む太陽